Translate

2011/10/04

春よ来い!

 2007年の不況プレリュード、2008年のリーマン・ショック、そして、ヨーロッパではギリシャに端を発する債権危機と続き、世界経済の雲行きは実に怪しい。

 そんな中、失業率の高さと、政府政策に不満を感じるアメリカの若者たちが、ウォール街で抗議運動を起こした。この運動は、ウォール街だけではなく、全国に広がりつつあるという。市民の不満は、ごく少数の企業エリート、それに密着した政治エリート、市民の声を顧みないマスコミ・エリートに向けられている。「アメリカの春」という言葉も聞かれ始めた。

 そういえば、今年初頭、エジプトやチュニジアなどから次々に広がっていったアラブ諸国の市民たちの運動も、歴史的な事件だった。カダフィのリビア初め、混乱は続いているとはいうものの、石油の権益を一手に占めてきた権力者に対する市民の抵抗は「アラブの春」と呼ばれた。

―――

 1990年代後半頃から「グロバリゼーション」という語で、世界規模の自由主義競争が社会問題視されるようになった。先進国の企業家らは、国境を超え、世界に購買者を求めて市場競争を激化させる。同時に、中国やインドをはじめ、低価格の労働力をも彼らはむさぼり集めるようになった。その結果が、自国の労働者の行き場を無くし、世界中の市場から得られる利益が、ごく少数の人々の手に収まるようになる。
 世界規模でのバブル経済化、カネカネカネの世界の中で、極小規模の富者と大多数の貧者の格差が生まれることとなった。かつて、豊かで安定していた先進国社会は、大多数の中流階級に支えられていたが、今や、いつ貧困へと転落するかもしれない不安の中に多くの市民が置かれている。ましてや、高齢化社会は待ったなしで近づいている。

―――

 自由市場経済の旗手と言えば、アダム・スミス。

 しかし、哲学者チョムスキーによれば、「見えざる手」の理論を提唱したアダム・スミスは、自由市場経済は、得られた富を市場に還元することで、やがて、社会に「平等」を実現するものである、と言っていた、という。
 また、アメリカ人哲学者デーヴィッド・コルテンも、この点に触れ、自由市場制は、スミスが意図していたようなものとして、完全に機能するには至っていない、と言っているという。
(チョムスキーとコルテンについては、Rob Wijnberg, En Mijn Tafelheer is Plato, De Bezig Bij
 2010から参照したもの)

―――

自由市場制を、平等にではなく、極端な貧富の差へと動かしたものは何か? 
資本を手に、あくなき欲望を追求していった少数のエリートたちだ。

ハーバード大学の教育学教授、ハワード・ガードナーは、21世紀の徳として、学校などの教育機関が教えるべき3つの徳として、『真実』『美』『善良さ』を上げている。

 カネと欲望の世界の中では、確かに、真実も美も善良さも、金銭の価値に比べれば、取るに足らぬものとされてきたのではないか。それは、宗教や文化の差を超えて、世界の価値観にまでなっていたのではないのか。

 その意味で、「アメリカの春」そして「アラブの春」で、人々が抗議の矛先を向けているものは共通だ。


----

 3.11の東日本大震災、とりわけ、大津波によって起きた福島第1原発の事故は、その後まもなく、電力会社という大企業と保守系政治家、官僚、そしてマスコミの癒着を国民の目にあらわとした。なぜ、火山列島地震大国の日本に54基もの原発が作られてきたのか、その裏には、電力会社の利権、政治家の権力的地位、個人名を問われることのない官僚らの無責任、マイノリティの声よりも広告収入を頼りに「上層階級」の生活を守りたいマスコミ人たちらの利害が、見事に、社会のピラミッドの上部に掃き集められたエリートたちの利権として一致していたからだ。

 原発反対の国民の意図や願望に反して、早くも原発回帰へと進む政治議論。

 なぜ、日本に「春」が来ないのだろう。

 春よ来い、、、、日本が世界からに孤立して、いよいよ、人類の文明進化への道を、ひとりで踏み外してしまう前に。