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2010/05/17

翼を広げて

 子どもの頃から、親兄弟がしているのと同じことはしたくない、と思ってきた。すでに親が長い時間をかけて熟練、到達したものをやるのは、踏み荒らされ、その結果またきれいに地ならしされた土地に足を踏み入れるようで嫌だった。それは言い訳にすぎず、実は、親が到達したレベルを超えられる自信がないというだけのことだったのかもしれない。
 学生の頃、無謀にもその頃まだほとんどだれも手をつけていなかった東南アジア研究に取り組んだのも、同じ気持ちからだった。先行研究がほとんどなく苦労したのは、先人の知恵に耳を傾けようとしなかった若気の至り。不勉強の罰があたったのだろう。

 人それぞれに性格があることだから、一概には言えない。でも、私自身は、自分が思い切り翼を広げて、自分で試し、成功したり失敗したりしながら自分なりの仕事を見つけていくという作業が好きだ。されがわたしの生き方だ、といっていい。追随したくない。自分だけのゆったりと広い場、夢を追いかけて翼を大きく広げられるゆとりや場が私にはいつも必要なものだった。

 そういう自分であるのに、わが子らに対しては、自分の思いや自分が蓄積してきたものを押し付けてしまうことが多かったのではないか、と思う。実際、無意識のうちにそうしてしまっている自分に何度も気づかされながら子どもたちを育ててきた。親とは実に勝手なものだ、と思う。

 自分がした苦労を子どもにはさせたくない、自分が達成したものを礎にして、その上でもっと発展してくれたら、、、、そんなことを考えるのが親というものであるらしい。しかし、子どもにしてみれば、そういう親の態度が、しばしば窒息するような気分を生んでしまう。いまだに未熟で、いろいろなスキルや情報を持たない子どもにとって、親が長年かけて積み上げてきた成果は、眩しすぎる。若人にとって、熟練した初老の先人の業績は、輝かしくて重すぎる。

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 親子も夫婦も、お互いに、お互いの興味や関心をのびのびと広げられる余裕を与えあうことは、互いの個性を伸ばし、互いに尊重し合える関係を築く基本であると思う。個性の中には、価値観もあるかもしれない。多少の価値観のずれは、むしろ、自分を見直すいいきっかけになる。

 そう気づいたら、親子も夫婦の関係も楽になった。もちろん、子どもたちや夫が、わたし自身に翼を広げて生きるゆとりを与えてくれ、その成果を無条件に喜んでくれるからにほかならない。家族というものは、また、そういう温かさのある、他の類のないものだ。

 結局、息子も娘も、夫や私が専門にしてきたこととは全く別の道を選んだ。そして、それぞれに、家族の中では、その道の「専門家」としての地位を築き始めている。少なくとも、お互いに、そんな風に尊重し合う大人でありたいと思っている。不思議なことに、それぞれが、異なる専門を持ち、異なる仕事にかかわっているにもかかわらず、自分の仕事に深くかかわり、何かの問題にぶつかったとき、お互いに共感できる何かに突き当たり、会話が、果てしなく興味深く続いていくということがしばしばある。結局、仕事も研究も、突き詰めれば、人の生き方、社会とのかかわり方にあるのだろう。それが、専門が違っていても、共感を生む原因なのだろう。

 人は、それぞれ、自分の得意な分野で自分の持っている能力を最大限に発達させればいい。そうして、同時に、自分とは異なる専門や技能を持つ人の言葉に、耳を開いておくのがよい。自分とは違う入り口からみた見方が、再び、自分自身の力を、ひょいとレベルアップさせてくれる。

 わが子らもが、それぞれ、私たち親とは全く違う専門を選び、いよいよ巣立ち始めた。
 翼を力いっぱいに広げて、自分の力を試したり、もっと大きな力をつけたりする場をもっともっと見つけてほしい。港に錨をおろしてしまわず、航海を続けていってほしい。そして、「これは私が自分の翼を大きく広げて、力いっぱい飛んでつかんだものだ」と、みずからの夢をなんどもなんども実現していってほしい。