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2010/11/25

ネット時代の幸不幸

 メール、ブログ、ツイッター、フェイスブックと、ネット時代のコミュニケーションツールはますます広がる。私などはこのブログあたりまでがやっとで、秒刻みで地球の裏側の人につながるツールは使いきれていない。
ネットテクノロジーは、確かに、国境を越えて、人をつなぎ、異文化の壁を超える協力で、希望の持てるツールであることは間違いない。今や、言葉の壁だけが大問題で、それをこれからどう越えていけるかだ。

ただ、そんな中で、日本からも、そして、オランダからも聞こえてくるくらい面もある。ネット中毒の問題だ。ネットでいつも誰かにつながっていなくては不安、という症状を持つ大人や子どもが増えていることだ。

つい先日のオランダの新聞に、「何をやる気も、また、将来の設計に取り組む意欲もない子どもたちが増えている」というのだ。しかも、それは、経済的にも豊かで、何不自由なく育てられてきた子どもに多い。大半の時間を家に閉じこもり、大学で勉強を始めても、そのうちやる気をなくして退学してしまう。かと言って、次に何をしたらいいのかわからない、そういう子どもたちが、オランダでも増えているという。

産業化社会は、どこも、共稼ぎ家庭が増えている。就学率の上昇、高学歴者の増大は、教育投資に見合う人材を産業界で使うのが当然だろう。また、少子化・高齢化社会が進む中、若年労働者が、労働市場にとどまれるようにすることも正当化される傾向がある。

そんな中で、置き去りにされる子どもたちの発達は本当に大切に考えられているのだろうか。

子どもたちが親と触れ合う時間、学校で社会性や情緒を育てるための真剣な取り組み、地域社会を子どもたちにとって過ごしやすい場とする取り組みはあるだろうか。

オランダの子どもたちについての記事の中には、「どうしてこんなに多くの子どもたちがやる気なく、冒険信をもたないのかについては、まだ、きちんと調査研究されていない、しかし、この子たちには、潜在的なうつ病予備軍であることは間違いない」というようなコメントがあった。

オランダには、一部に、子どもたちの自立性・共同性に熱心に取り組むオールタナティブの学校があり、自由裁量権を得て非常に先進的な取り組みをする機会がある。そういう一部の学校の影響からか、全体としては、子どもたちの幸福度が極めて高い。そういうオランダでさえ、上のような、受け身でやる気のない子どもたちの問題が表面化してきている。

世界の子どもたちは、今、どんな子ども時代を送っているのだろう。
ネット文化を、身近な足元の人間関係や問題意識を豊かに展開するために使える人はいい。しかし、目の前の生きた人間とのかかわり方を知らずに、そのさみしさを紛らわすためにネットに没頭したり、ゲームに明け暮れる子どもたちもいるということを、私たち大人はもっと深刻にとらえるべきなのではないか、と思う。

こういう子どもたちがわんさと大人になった時、未来の社会は、果たして、本当に、異文化の壁を越えた豊かな社会になっているのか、それとも、気分だけはつながっているが、本当に、共感を分かち合う手段を持たない気味の悪い人間ばかりになっているのか、、、、

2010/11/17

へそまがりのトリリンガル理論

大勢の人が飛びつく話題には乗りたくない、、、、そのもう一つ先を言わずにおれない、、、どうも私の中には、そういう手名付けにくい、へそまがりの虫が住んでいるようだ。

バイリンガル理論が日本でもどうにか一部で根付き始めたようだ。だから、私はあえて、今の時代にトリリンガル理論をすすめたい。


いまから30年以上前、「これからの時代、日本語だけではだめだ」と思って、わたしは英語会話の学校に通い続けた。当面は留学が目的だった。しかし、語学研修でイギリスに行って帰ってきたら、西洋先進諸国と言われるアメリカやイギリスへの興味が、なぜかガクンとなくなってしまった。
そうして、数年後、マレーシアに留学した。西洋文化に対するオールタナティブがほしかった。以来、ずっと、日本語+英語+OO語というトリリンガル生活が今日まで続いている。

マレーシアでは、巷のインド人中国人たちが、母語のほかに英語をペラペラしゃべっているのにあきれた。それどころか、当時、ナショナリズム政策で優先されていたマレー語もみんな使いこなしている。だからと言って、自分たちの文化的なアイデンティティを失っているわけではない。

昨日、日本の『英語教育』の視察団の方たちにお会いした。
日本の子どもたちには、ヨーロッパの国々の子どものように、異文化に触れる機会が日常生活の中にないため、英語学習への「動機づけ」が限られているという話になった。
「それならば、子どもたちを動機づけるために、<子ども国連>をしたり、英語でかかれた子ども向け雑誌を発行したり、英語のテレビ番組を作ってはどうか」と提案したら、
「日本にはいまだに、西洋支配の象徴のような英語を義務付ける必要はない、というような人たちがいまして、そういう全国的なアクションをやりにくい、、」という話だった。

その程度のナショナリズムを振り回す人に限って、日本の文化や伝統の深さを知らないのではないかと思う。そもそも、そういう人たちこそ、自分自身のアイデンティティのよりどころを確信できていないのではないのか。自分が何者か、自分の拠って立つ文化をどう自分自身が評価できているのか、それがあって初めて人間のアイデンティティは確立する。そして、そういうアイデンティティがあれば、外国語を学ぶことによって日本文化が崩壊する、などという僭越な議論には走らないはずだ。国旗を挙げ、国歌を歌えばアイデンティティが育つというのは、根拠のない迷信だ。アイデンティティは、他者を知ってこそ初めて育つものだ。他者を徹底的に知り尽くしてやろうじゃあないか、という気概がなければ、また、他者の存在を世界の同朋として受け入れようじゃないか、という懐の深さがなければ、自分のアイデンティティなどというものは生まれようがない。

なんとまあ、遅れた国際意識か、と改めて思う。チョンマゲ日本人がまだのさばっている。

日本は島国、ちょうど、英語を国語とするアメリカやイギリスと同じように、国民がモノリンガルである国の典型だ。今時、モノリンガルである地域の方が、多分、世界地図の上ではマイノリティなのではないか。モノリンガルがなぜだめか、というと、「相対的なものの見方」ができにくいからだ。

アメリカとイギリスに比べ、日本がもっと大きなハンディを背負っているのは、当たり前のことだが、日本語が世界語ではないことだ。アメリカやイギリスは、自分たちはモノリンガルでも、よその国の人が進んで情報をくれるからまだいい。日本の場合、自分たちが英語をしゃべらなければ、外国の人は気にもかけずに無視していくだけだし、逆に、外からの情報を得る手段もない。

そもそも、言語なんてものはツールでしかない。ツールは多いに越したことはない。しかし言語というツールは、ツールらしい、役に立つものにするために数年の時間が必要だ。それを国が支えてくれない、制度としてやれない、というのは、国民にとって大変な損失であり、機会剥奪でさえあると思う。

―――

と、ここまでなら、単なる英語礼賛、バイリンガル礼賛になるのだが、私は今トリリンガルの必要を強く感じている。特に、流行を追うように英語を学び、それで「国際化」の一歩を踏んだかのように思ってしまう若い人たちへの忠告として、トリリンガリズムをぜひとも勧めたい。
英語礼賛はあぶない。それだけでは、アメリカやイギリスへの留学・研修で、安易に国際化が済んだ、と思ってしまう態度につながりがちだからだ。私の専門分野である教育学でも社会学でも、学者にはその傾向が強い。それが、英語以外の言語圏への関心を相対的に低くしてしまい、場合によっては軽視、そして、アメリカ、イギリスという、特殊なアングロサクソン圏の文化や思想を、「西洋思想」として一般化してしまう傾向が強くなりすぎるからだ。英語は必要だ、バイリンガルは、今の時代を生きていくための最低条件だ、しかし、それだけでは十分ではない。

日本人一般に対しては、まずは英語能力を今の10倍にするつもりで高めてほしいと願う。しかし、日本の知識人、新しい時代を生きる若い人たちに対しては、トリリンガルになってほしいと思う。今やそのくらいの覚悟がなければ、世界に通用する知識人らしい知識人にはなれない。英語以外にもう一つ、どの言語でもいいから、ふつうに情報収集できるだけn言語能力を身につけてほしい。ドイツ語でもフランス語でも、中国語でもヒンズー語でも、ロシア語でもアラビア語でもいい。そうすれば、英語文化が相対視できるようになる。日本と英語圏の文化に対して、第3の点を設定し、それぞれの位置づけをはっきりさせることができる。

開発途上国のリーダーたちは、たいていがトリリンガルだ。彼らは、インターネットの普及の影で、今や、したたかに世界の最も先進の情報を吸収している。その同じ時間に、曲がりなりにも「大学」を出た学歴のある日本人が、閉塞感の強い社会でうんうん唸りながら面白くもない仕事を残業までしてやり、その挙句、リクリエーションと言えば、茶の間でたくわんをぱりぱりしながらバラエティ番組を見るか、インターネットで、日本語に限られた情報だけをサーフィンするか、日本語だけでブログし、つぶやきまくる、、、、はたまた、役にも立たない(エログロナンセンス)マンガを見て過ごすだけ、、、、これが「武士道」の日本人か、、、、単なるチョンマゲ日本人のやせ我慢にすぎないのではないか、、、、情けなさを通り越えて、日本人が意識もしていない間に、ますます、世界の人々の知的レベルからかけ離れたところに孤立していっていることに、ゾクっとするほどの危機感を感じるのは私だけだろうか、、、

日本人が能力が低いのではない。日本人には優れたさまざまの能力があると思う。しかし、それを外に向けて伝えることも、外からの情報をもとに、持っている能力にさらに磨きをかけていくこともしなかったら、そして、そうするための手段や機会に接近できなかったら、たんに宝の持ち腐れになるだけだ。たくさんの可能性に満ちた大人や子供の能力を引き出す機会と制度に欠けていること、それが、まさに、日本の大問題だ。

2010/11/02

ラオの後日談

カンダヤおばさんからスカイプで電話が入った。
今から約30年前、マレーシアで世話になった下宿の大家さんだったインド人のおばさんだ。
(拙著『地球を渡る風の音』でも紹介)

10年ほど前にご主人を亡くされ、二人の息子はオーストラリアに移住してしまったが、70を越えた今も一人でマレーシアで暮らしている。30年前、マレー人を優先して中国人やインド人に対する待遇が厳しかったマレーシアで、インドから輸入した食料品を売る小さな街かどの雑貨店を営みながら、二人の息子をイギリスに留学させた。

その雑貨店にラジャというインド人の奉公人がいた。当時24歳ぐらいだったと思う。クアラルンプールのゲットーに住む貧しいインド人労働者の息子だった。早朝から夜遅くまで、雑貨店の雑用を手伝いながら、カンダヤ夫妻と寝食を共にし、家族同様の暮らしをしていた。小さい頃からいろいろな仕事を転々とし15歳くらいの頃にカンダヤ夫妻の店にやってきたという。カンダヤおばさんはそういうラジャに店番をしながら英語会話を教え、毎月の給料のほかに貯金を積み立て、数年後にラジャが自立した時にはその貯金を持たせてやった。

私が彼女の家に下宿をしていた頃、一人の痩せっぽちのインド人の少年がやはり雑貨店の手伝いをしにやってきた。ラオというその少年は、話に聞くと13才だったそうだが、痩せた体つきといい、無言の表情といい、どう見ても7歳くらいにしか見えない。貧しいゴム園労働者の子どもだったそうで、祖母との暮らしでは十分な栄養も与えられず、学校にも通えなかったものらしい。

ラオは、ラジャやカンダヤおばさんに見守られながら、雑貨店の雑用をしていたが、そんな体つきではほとんど仕事らしい仕事になっているようにも見えなかった。きっと、人づてに頼まれてカンダヤ夫妻が引き受けることになったのだろう。

そういうラオが、ある日突然姿を消した。カンダヤ夫妻とラジャとは騒然となり、いつもの日課を棚上げにして近所を探し回った。どうしても見つからないから、と夕刻には警察に捜査願いを届けることになった。そして翌日、ほっと安堵と幾分かの疲れを表情を顔に浮かべたカンダヤおばさんは、ラオがゴム園の祖母のところにひとりで帰っていたことが分かった、と教えてくれた。

「いったいあんな小さな、言葉もろくにしゃべらない子が、バスに乗って遠いゴム園までどうやって帰ったのだろう」というのが、その晩のカンダヤ夫妻やラジャたちの話題だった。

どうやら、雑貨店で働きながら、客が支払う小銭の一部をほんの少しずつ貯めていたものらしい。そうしてバス代がたまったところで、バスに乗って帰ってしまったのだ、、、

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私は、このラオという少年のことが忘れられなかった。同じような境遇からやってきて、英語を覚え、家族のように扱われ、やがて工場のメンテナンス職員として独立していったラジャとの対照があまりにも大きかったからだ。ほんの小さな判断の違いが、人生をこうも変えてしまう、ということに、なんとも言えない気持だった。だから、私はこの二人の少年のことをわざわざ『地球を渡る風の音』のエピソードとして紹介していたのだった。

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スカイプの発信音を鳴らして、突然電話をかけてきてくれたカンダヤおばさんが、ラジャやラジャの家族の近況などを話してくれるのを聞きながら、ふと思い出して、
「ねえ、ところで、覚えてる? 私がいた頃、ラオという少年がやってきたでしょ、後で突然いなくなってしまった、、、、、あの子その後どうなったのかしらね」
と尋ねてみた。

するとカンダヤおばさんは
「ああ、ナオコ、ラオを覚えていたの?よく覚えていたわね、、、。ラオはね、あれから何年かしてうちを訪ねてきたんだよ。突然うちの玄関をノックしてね、、、『おばちゃん、おばちゃんが正しかったよ、ぼくはあの時帰ってしまうべきじゃなかった、ってあとでよくわかったんだ』って、そういってきてね」

ええーっ、と思わず私は驚きの声を上げずにおれなかった、、、

ラオはその後成長してトラックの運転手になったのだそうだ。
カンダヤおばさんによれば
『ラオはちゃんと仕事をしているよ、、、3人の子どもたちもちゃんと学校に行っているよ、上の子は大学に行ったんだけど交通事故に会ってね、、不運なんだねラオは。でも、ラオよりも利口でしっかり者の奥さんがいるから大丈夫、、、』

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そういうカンダヤおばさんは、子どもたちが移住してひとり立ちした後は、雑貨店を閉めて、夫の年金と、自宅に置いている下宿人からの収入で生計を立ててきた。週に一度はヒンズー教の寺院に参り、週のうち2,3日は、大学病院のホスピスで末期がんの患者の話し相手になるというボランティアを続けている。毎年一度は子どもたちがオーストラリアに招いてくれ、必ず年に一度祖国インドに帰ってヒンズー教の寺院に参り、1,2週間孤児院の手伝いをして帰ってくる。

判を押したように規則正しい、無駄やぜいたくのない暮らしぶりは、きっとあの頃のままであるのに違いない。

そういう彼女の、決しておしつけがましくはないのに、自分自身を律した生き方が、周りの人々の心に何かを芽生えさせる。ラオのような少年の心まで、、、