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2009/09/23

東アジア共同体構想

 国連気候変動サミットへの出席ほかで訪米中の鳩山新首相が、中国の胡主席との会談の中で、東アジア共同体構想を伝えたとのニュースが伝わっている。首相は、その際に、欧州連合が、もともと52年にできた欧州石炭鉄鋼共同体に発したものだ、ということに触れ、日中関係については、村山首相の発言を踏襲する、と述べた、という。
 
 欧州連合が、欧州石炭鉄鋼共同体に発したものである、ということは、私自身、今年の5月に刊行となった尾木直樹氏との対談「いま開国の時、ニッポンの教育」の中でも、特に強調して触れた点だった。
 一般に、日本では、欧州連合とは、単なる経済強調、自由市場の開放・共有という観点以外で語られることはほとんどない。しかし、実を言うと、この連合は、それ以上に政治的な意味合いを強く持ったものだ。
 第2次世界大戦後間もなく、欧州連合構想を持つ欧州のエリートたちは、武器生産の原料となった石炭と鉄鋼の市場を開くことで、対立の道をまずは断とう、と考えた。10年にも満たない年月の過去、軍靴を踏みならし、戦車を引いて、互いの民衆を殺戮しあっていた国の人々が、こうして手を結ぼうとしたのは、「民主主義」には長い伝統を持っていたはずの、キリスト教文化の先進国ヨーロッパの国々の人々が、自ら引き起こした戦火への反省だった。
 特に、第1次世界大戦の他愛ないまでに理由なき憎しみと殺戮の歴史は、フランスの田舎町を歩けばだれの目にも明らかだ。どんな辺鄙な田舎町にも、必ずと言っていいほど、戦死者を慰霊する塔が菩提樹とともに立っている。
 第2次世界大戦後の復興は、人々に、戦争というものがいかに大きな無駄な破壊を生み出すものであるかを知らしめるプロセスであった。人間の社会にとって、平和裏に強調することが、繁栄と安定の何よりの基礎であることを痛いほど知ったのは、この人たちだった。

 前近代的な封建制度が残る、権威主義のアジアの国々に比べ、ヨーロッパの人々の心には、近代市民としての感情があったはずだ。それだけに、彼らが引き起こした戦争は、自らが何百年にもわたって積み上げてきた「民主制度」そのものを内側から破壊させる恥ずべき行為だった。彼らには、ノーという自由がなかったのではなく、ノーという勇気がなかったのだ。自由からの「逃避」が殺戮を生んだ。

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 あれだけ憎しみ合っていたドイツとフランス、そして大国に蹂躙されたオランダやベルギーの人々が、よくぞこの共同体の成立にこぎつけたものだ、と心を打たれる。
 それほどに、20世紀は悲惨で残忍な世紀だった。

 以後、欧州経済共同体から欧州連合へと連帯を強め、現在、25カ国もの国が、連合に参加している。死刑制度の禁止など、連合加入基準には、人権擁護が何よりの条件になっている。経済市場を自由化し、貧困地域に欧州連合の補助金で援助を与えることにより、、連合地域内の経済格差をできるだけ小さくすること、それは、究極的には、富の配分の不公平から生まれる紛争を回避することが目的だからだ。

 今や欧州連合は、トルコの連合参加をめぐった議論を通じて、和平の地域を、キリスト教文化を越えて、イスラム圏にまで広げていくか否か、という議論にまで発展してきている。

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 いつになったら、欧州連合のような動きがアジアに生まれるのだろう、とずっと思ってきた。そうしたら、あっけなく、鳩山首相が東アジア共同体構想を持ち出した。嬉しい驚きだった。

 北米の経済勢力に対抗する、一大安定経済ブロックを築いているヨーロッパ。アジア共同体構想は、今の世界の動きの中で不可欠なものだ。

 鳩山首相が、東アジア共同体構想の発言に伴って、村山首相の発言を踏襲すると確認したのは、実に的を得たものであったと思う。こうした国境を越えた国家間共同には、歴史上の参加を認め、お互いが歩み寄る姿勢がなければ実現はあり得ない。

 戦争は、民衆の犠牲を生む。終わってしまえば、勝者と敗者。あたかも、勝者がすべて正しく、敗者がすべて謝っていた、と見えてしまうのだ戦争でもある。しかし、民衆は、どちらの国であっても、支配者のエゴの下敷きとなり犠牲となるだけの存在だ。

 だが、もしも、その国が、民主的な制度を作っていくつもりなら、国の行方を背負う有権者は、歴史上の過ちから目をつぶるわけにはいかない。

 原爆や大空襲で多くの犠牲者を生むことになった日本は、それだけで、『だから仕方がなかった、罪滅ぼしはすんだ』と「済ませてしまう」のではなく、その犠牲の痛みを持っている分、自らの国が引き起こした他の国の民衆の痛みには、心から『詫び』と『悔恨』の気持ちを表明すべきだろう。これまでの日本は、自国の民衆の痛みをあまりにも顧みなさすぎた。国内での、人々の幸せの軽視が、国外の不幸への関心を薄くする因であったと思う。

 自国の人々すべての幸福を保障し、そこから、世界平和へと発信していくことは、紛争中の他国の和平に寄与するための最低条件ですらあると思う。

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 東アジア共同体構想は、おそらく、アメリカ政府のけん制を買うことは十分に予想される。イギリスが、欧州連合の中で常に片足をアメリカとの関係に残しているように、日本もまた、そういう立場を強いられることになるのかもしれない。しかし、アジア共同体は、究極的には、アメリカ社会の再建のためにも有用なものとなるだろう。
 アメリカの一般民衆は世界を知らない。かの国も、一般には教育の質がきわめて低い。大国主義が、世界の動向への人々の無知を蔓延させてきた。欧州共同体とアジアの連帯は、そういうアメリカ人の無知と奢りを修正していくことになるだろう。そして、オバマ大統領が、本当に、世界協調の道を選んだのなら、アジアの連帯の動きは、阻止すべきではないと思う。もはや、アメリカの一国大国主義は遠慮願いたい。
 (東)アジア共同体構想が現実的なものとなっていけば、ロシアもまた、ヨーロッパとアジアの動きをにらみながら、新しい外交を迫られることとなろう。それを通じて、こちらもまた大国主義のロシアが、国内にあるさまざまの人権蹂躙の問題を、やがて、膿のように外に引き出され、諸外国との連帯和平の道を選ぶことにつながっていくのなら、これも、究極的には、正しい道であると思う。

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 ヨーロッパ共同体の神髄は、個々の国の個性を生かし、多元主義的な共同を図っていることだ。それだけに、ヨーロッパ<統合>の動きと、各国の<独自性>との間には、いつも緊迫したバランスが求められる。また、個性重視の理念の背後には、キリスト教文化でたたきあげられた個人主義が根本にある。
 それに対して、アジアの国々は、個人主義が未熟だ。中国にせよ、インドにせよ、言うまでもなく日本もまた、伝統的な価値意識や共産党の一党独裁、儒教や神道など、滅私奉公的な、事故を限りなく矮小化させて成り立つ同調主義の意識が厳然としている。そういう文化が優勢なアジアは、果たして、ヨーロッパのような多元主義的な共同の道をたどることができるのだろうか。
 
 反面、ヨーロッパが今直面しているのは、対イスラム文化との共存だ。
 いずれも一神教であるキリスト教とイスラム教、また、イスラエルのみならずヨーロッパ各地に存在しているユダヤ人コミュニティ。一神教の信徒は、他宗教を排除する傾向が強くなりがちだ。ヨーロッパの多様な共同を可能にしてきたのは、キリスト教がドミナントな世界であったから、キリスト教文化の歴史的な発展が支えていたからであるともいえる。しかし、それは、今、非キリスト教文化と対峙することで大きな挑戦を受け始めている。
 その点、あるいは、アジアの共同体は、一神教でない分、宗教対立を避けやすい、というナイーブな議論がないわけではない。しかし、現実には、中国国内の少数民族差別問題は深刻だし、南アジアの宗教対立も激しい。世界一のイスラム教人口を抱えるインドネシア、アフガニスタンのタリバン問題、と紛争地域はあちこちに散在している。
 日本という足元を見ても、外国人排斥、あるいは、同じ日本人の中にすら、差別があるという現状だ。

 これらの問題をどう正していけるのか?

 (東)アジア共同体構想を進めることが、国内の差別問題に光を当て、内側から「共存」「協働」の原理を問い直すきっかけとなるのなら、それもまた、希望のあることではある。

 険しいが、進むべき道であり、持つべき展望であると思う。

2009/09/05

カリスマから黒子の時代へ

 カリスマ的人気が政治の行方を決めるのは、人々の価値意識の画一性が高い時代、喩えていうなら、自民党の一党支配や、すべてをカネの価値で測る徹底した物質主義、消費社会に無批判な時代だ。

 自己実現というものが、人気取りとカネで買える物の豊かさに集中している時、また、不幸の原因が物質的な貧しさそのものの強要から生まれている時、インセンチブをチラつかせるカリスマが人気を得る。

 民主党は、消費者優先、有権者の声をもとに日本の政治を変える(CHANGE)と言って、圧勝した。

 日本に新しい時代が来るのが楽しみだ。

 新しい時代、有権者の声が平等に聞かれる時代は、黒子が暗躍しなくてはならない時代だと思う。

 メディア、市民運動を率いる知識人たちが、どれだけ「黒子」になって、有権者の声を届けるパイプ、ファシリテーターになれるか、が問われる社会だ。

 王様も、ポップシンガーも、政治家も、主夫や主婦も、女も男も、パートタイマーもフルタイマーも、若者も高齢者も、部下も上司も、みんなが、「普通」の人として、大声でではなく、また、人気者にならずとも、「普通」に声を上げられる社会。それを作っていけるのは、一人のカリスマではなく、複数の黒子たちだと思う。

 そして、そんなことがより多くの人々に認められている社会、それが、地球全体にやさしい、格差のない、未来の世界社会だと思う。

相手の「ノー」に立ち向かえる力

「イエス」と同じように「ノー」と言えることは大切だ。しかし、人から「ノー」といわれて動じずに関係を保っていけることももっと大切だ。

 「ノー」と言えない日本、という言い方が巷によく聞かれるようになったのは、高度成長を果たし、日本が先進国の仲間入りをしたころからではなかっただろうか。日本人がエコノミックアニマルと揶揄され、日本製品が海外で不買運動にあった頃から、日本人のそういう自覚が一般に意識されるようになっていたような気がする。しかし、日本人は、とかく海外で「ノー」と言えない、というような話は、それよりもさらにずっとずっと前から言われていた。

 最近、またぞろ「~~~って言うな」というような言葉づかいやタイトルが流行っている。日本人は、自国にいても「ノー」とはなかなか言えないものらしい。
 率直にいって、21世紀のこの時代に、日本人の中に、いまだにそんな風なタイトルの本が出てくるほど、なにか人に対して拒否したり、「ノー」と言うことを躊躇する人たちがいるのだろうか、とやり切れない気持になる。
 「ノー」と言えない日本人を作ってきたのは、いったい何なのだろう。
 画一教育、迎合メディア、カリスマ礼賛の大衆文化が一役を果たしてきたことには疑いの余地もない。それを「日本の文化なのだから」などとくくられてしまったのではたまったものではない。
 村八分の伝統の後ろには、村八分にされてでも自尊心を抑えきれなかった人たちがいたことを忘れるべきではないだろう。
 外に向かって、ことに西洋先進国に向かって「『ノー』と言える日本」と肩肘を張って見せつつ、実は同時に、日本の中にある「ノー」という声を、文化や伝統の名のもとに押さえつけてきたのは、狭量な愛国主義者たちではなかったか。そんな道理のないやり方は一日も早くやめた方がいい。

 「ノー」ということに強い抵抗を感じるという感情は、多分今でも、日本人が初めて外国に出てみて最初に感じるものであるはずだ。
 だが、気楽に、しかもはっきりと「ノー」と言える人々というのは、私の知る限り、欧米先進国だけではなく、中国やアフリカ、ラテンアメリカなどでも、割合に普通に見られる。日本人に強制されてきた同調行動は、なぜか、やはり、例外的ともいえるほどに強い。

 パーティなど人が集まる場で、飲み物や食べ物や行く先の好みを聞かれると、つい「ええ何でも、、、」とやってしまうのが日本人で、自分の選択をなかなか言えないし、決められない。仕方がないので、周りはどんな選択をしているのかと様子をうかがい、そろりそろりと、目立たず、当たり障りのない選択をするのが、関の山だ。

 しかし、そういう段階を乗り越えて、現地の生活にも慣れ、言葉もかなりこなせるようになってくると、またまた次の問題に直面する。自分の意見は何とか表現できるかもしれない。しかし、その意見に他人から「疑義」をさしはさまれたり、「それは少しおかしいんじゃない」「私はあなたの意見には不賛成だわ」「ノー、それはちがう」とやられると、もうそれだけで、どう会話を続けていったらいいものか、言葉を知らない、議論の方法を知らない、という戸惑いの経験をもつ日本人は少なくないはずだ。

 言葉遣いに注意深く、レトリックがうまく、相手の深刻すぎる反応にはユーモアでかわせる、そんなテクニックを、「ノー」が気楽に言える社会の人々はよく知っている。

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 私は、「ノー」といえるということと同時に、相手が自分に対して発してくる「ノー」という言葉にどう対応するかについての準備がなければ、言い放つだけの「ノー」にはあまり意味がないと思う。

 これからの世界は多様な価値観を背景に持ついくつもの文化がぶつかり合う世界になる。そういう多様性を受け入れ、多元的な社会で生きていくつもりならば、「ノー」と言えると同時に相手の「ノー」を受け入れ、それとどう共存していくかを考えてみることは避けられないことだと思う。異文化社会という、自分の意見をはっきり持つと同時に、相手と四つに組んで交渉していく覚悟、相手との対立の中からウィン―ウィンを生み出す意欲と覚悟がいる。
 
 国際化とは、パスポートを作って飛行機に乗って外国に行けばできるというようなものではない。国境を越えなくても、今自分がいる場所で、周囲の人、あるいは、自分のいる場所の政治に対して、イエスとノーをはっきりさせ、同時に、相手の「ノー」を認め、どうしたら共存できるかを考える態度が持てるのであれば、それはもう立派な地球市民だ。

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 今回の衆院選で、自民党は、大多数の有権者の「ノー」に直面した。さて、自民党は、これから、この大きな「ノー」に対してどう応えていくつもりなのか、、、

 他方、衆院選で圧勝を果たした民主党は、早速、数日後にアメリカの 牽制に直面した。アメリカ政府は、こうして高圧的に牽制してみることで、「さあ、これからが交渉だ」と思っているのに違いない。欧米の交渉は「ノー」から始まると言ってもよい。それは、「私(たち)には、あなたとは異なる利害がある。」というサインなのだ。

 まずは、お互いの立ち位置をはっきりさせること、交渉はそこから始まる。
 
 政治家とは、そもそも、交渉の名人・レトリックの達人であるはずだ。政権交代を繰り返してきた欧米先進国の政治家というものは、2大政党制にしろ、多党制にしろ、相手の「ノー」にどう対応するかについては、特別長けた、いわば交渉の専門家たちだ。

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 いまだに、「~~~って言うな」と言い放ちつつ、「おれたちは理解されていない」と被害者意識を蔓延させるやり方は、だから、それで本当に良いのか、とても気になる。

 私たちは、一人ひとりが社会の成員だ。カネやコネがなくても、ひとりひとり一票の価値を持つ有権者だ。自分もまた、決定にかかわり、その帰結に責任を持つつもりならば、「ノー」と断るだけの言い放ちはおかしい。「ノー」と発信すると同時に、自分と相手の立場の違いが確立する。問題は、その違いをどうやって出来る限り狭め、お互いが納得するところまで持っていくことができるかだ。

 大人の市民としての矜持は、もっていたい。人としての尊厳がなかなかに認められない時代と社会であればあるほど、、、、