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2009/06/24

静かな衝撃

 よく訪ねるイエナプランの小学校に最近またある視察団とともに訪れた。
 イエナプラン校は、何度も訪ねているのにたずねるたびに新しい発見がある。

 この日、訪問者とともに職員ホールに通され説明を聞いた。若い女の校長先生が、いつものように学校の概要を説明してくれた。そして、それから、ちょっとほほ笑んで、私の方に目配せをし、
「それからね、今日は、実を言うと今学校に特別のお客さんがいるんです。最上級生が今そのお客さんを囲んでサークルで話し合いをしています。そのお客さんというのは、実は、刑事犯罪を犯した人で、TBSクリニックからきています。ちょうど、今子どもたちは『法律』について学んでいるところなので、ホンモノの勉強をするために、こうしてゲストとして招いて、子どもたちと話をしてもらっているの」

 TBSクリニックというのは、殺人事件や強姦事件などを起こした、かなりの凶悪犯罪者で、少なくとも4年間の留置の刑が科された犯罪に対し、犯罪を犯した時期に、精神的に異常であったことが証明され、そのために、服役能力がないと考えられる人が収容される施設だ。
 ほとんど回復の見込みがない精神異常であるため、治療を受けながら一生クリニックで過ごすケースも多い。

 しかし、治療を受けて数年すると、社会復帰トレーニングのために、はじめは、クリニックの周辺、また、期間をおいて、自宅に帰ることができるようになったりする。無論、精神異常の程度が強くて復帰トレーニングができない場合もあるのは当然だ。
 ただし、こういうTBSクリニックから、社会復帰トレーニングとして一時的に復帰訓練をしている患者が、介護人の監督のすきを見て逃げ出し、その結果、薬品の摂取をやめ、精神異常の状態が起こり、強姦や殺人などの再犯が起きてしまったケースも確かにある。そして、そのたびに、責任問題や、今後の対策が熱い議論になって問われている。

 だが、こういう患者たちの社会復帰トレーニングの「あり方」を変える議論はあっても、「やめてしまえ」という議論はほとんど聞かれない。それは、凶悪犯罪を犯したこの人たちが、精神以上と言う、本人にはどうしようもない原因を持っているからであり、そういう人たちの人権を守ることは、社会の成員すべての共通の義務である、と考えられているからだ。オランダ社会の人権はそこまで守られている。

 というわけで、その日、そのイエナプランの小学校では、学校の真ん中の明るいホールの中央で、TBSクリニックから一時帰宅しているという「元」凶悪犯罪人の患者が、15人ばかりの小学六年生に囲まれ、子どもたちから出されるいろいろな質問に答えていた。手枷、足かせをしているわけではなく、若い二〇代後半くらいの女性が、付添い人としてそのサークルの輪の中に入っていただけだった。

 校長先生と、その分校の分校長とは、私が連れてきた二〇人ばかりの日本からの視察団の応対をしているし、ほかのクラスでは、いつもと同じように、普通の授業が普通の時間割通りに行われていた。
 
 警察官が学校の周辺や校内に来て見張りをしているわけでもなかった。

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 数年前、TBSクリニックから一時帰宅していた患者に誘拐され強姦され、国境を越えてドイツにまで連れ去られていた女子中学生のことがニュースになったことがあった。無事に発見されたその中学生は、中国系の移民だったと記憶するが、誘拐されている間、犯人の心を動揺させまいと、出来るだけ刺激的な態度を取らずにいたのだ、と、発見後テレビカメラに向かって淡々と答えていた。
 相当な精神負担があったはずだが、とても冷静な様子に印象付けられた。当然、その後トラウマ(心の外傷)対策のカウンセリングが行われたものと思う。


 罰すべき、憎むべきは、犯罪行為であって、人の存在そのものを否定することはできない。
 
 オランダに「死刑」がないのはそのためだ。
 『死刑』がないのはオランダには限らない。ヨーロッパ連合加入の条件の一つは、『死刑』制度がないことだ。

 

2009/06/12

徳と尊厳と狭き門

 徳という言葉がある。英語ではVirtue, オランダ語だとDeugdだ。
 英語のVirtueという語は価値(Value)という語に近い。ありとあらゆるものに対する価値の置き方は一人一人ちがう。それを価値観という。人は、自分が持って生まれた背景や生きてきた経験を通して一つの善悪の判断基準を作り上げ、何らかの価値観を持って生きている。その価値観に従って生きることが、徳の実践ということだ。

 しかし、価値観を持つことと、それを体現できることとの間には、大きな大きな隔たりがある。
 理想のとおりに生きていくことは難しい。


 徳は、社会性の高いものだな、と思う。なぜなら、徳の実践は、他人がいるところでこそ真価が測られるものだからだ。 

 尊厳という言葉がある。人が人として、自分の信じる価値観に従って行動できることだと言ってよいと思う。しかし、この尊厳を阻むものが世の中にはごろごろ転がっている。転がっているどころか、意図して阻む行為が外からも押し寄せてくる。

 多分、尊厳に従って生きるのが最も難しいのは、最低限度の衣食住を保障されない人たちだ。「清貧」という言葉があるが、言うほどにやさしいものではない。それを、私は、アジアやアフリカの国々で見てきた。

 でも、多くの人々が手を携えていれば、社会の結合が強ければ、尊厳を保てることもある。

 徳を持って生きるのが難しいのは、権力者もそうだろう。カネや権力は、人を他の人に対して懐疑的にさせるものだ。他人を信じられなくなれば、頼るものは、カネと権力。尊厳などとは言っていられない。

 尊厳をもち、徳に従って生きるのは、ことほどに難しい。「狭き門」とは、多分、そのことを言っているのだろう。

 なぜ、人は「自由」でなくてはならないのか。それは、自由が奪われたところでは、人の徳が引き出されないからだ。特に従って生きることは難しい。だからこそ、それが少しでも実践できるだめに「自由」がなくてはならない、多分、そういうことなのだろうと思う。

 「中庸」は、洋の東西を問わず、徳の神髄にある。
 しかし、中庸を、中途半端、妥協として、独善やシニシズムに走る人は多い。

 独善とシニシズムが心に芽生えた時、他者への受容は消え去ってしまう。そして、思いもよらず、不徳な傲慢と排斥の行為に足を取られてしまう。

 徳に従って生きるとは、、、、中庸に生きるとは、孤独であるし、ほんとうにほんとうに難しい。
 人として成熟するというのは、多分、こういう徳との戦いを続け自分を見つめ続けるということなのではないか、と思う。

2009/06/02

貧困という危なさ

 「貧困」が最近の政治議論のキーワードになりつつある。
 なぜ「貧困」が危ないのか。
 人間としての尊厳が保てないからだ。

 日本政治のキーワードになりつつある「貧困」は、今、すでに、権力者からまんまと利用されつつある。人間としての尊厳を保てないほどの貧困に喘ぎ、なおかつ、そういう貧困の中でまともにものを考え判断する教育さえ受けられなかった人々は、権力者の力で赤子の手をひねるようにどうにでもなる存在だ。

 私の海外在住体験の第一歩はマレーシアの最貧地域の貧村での入村調査だった。電気はまだ村の一部にしか通っておらず、ほとんどの家には、トイレをはじめ下水溝がなかった。
 80年代初頭のことだ。
 
 当時、日本経済は繁栄の頂点。その年、マハティール首相は、「ルック・イースト政策」と呼んで、日本を見習え、をスローガンに掲げていた。日本は、開発途上資金を落としてくれるパトロンだった。日本の建設会社は、現地にビルを建てては、元をとり返していた。その金で、私のいた貧村がどういう事態になっていたのか、、、

 私の当時の研究テーマは「マレー村落の権力構造」。
 そこで見たものは、貧困地域の生活向上のために開発資金が落とされる中、村の中で、現政権に対して「イエスマン」になる人々を(近代的)リーダーとして引き上げ、それらのリーダーを通して、村の中で、最も底辺にある、粗末な住居とぎりぎりの自給生活をしている人々に、少額の補助金を落としていくことだった。貧困にあるものは、少しでも補助金がもらえれば息がつける。他の村人との格差を見せつけられれば、補助金はもっと嬉しい。こんなに、恩恵深い政党なら支持しようと、村人たちは、トラックに荷台に乗せられ投票場に行き、保守政権への投票をした。

 反対していたのは、イスラム教急進派と呼ばれる政党の人々だ。
 自営業を営み、そこそこに自分の生計を立てている人々には、補助金は降りてこない。村長のイエスマンにならず、毅然と自分の尊厳を守るような連中は、政府関係者にとっては目障りでやりにくい。カネに目がくらんだ村長や、州の権力者が天下りさせる村長が増える。穏健派、実は優柔不断な政府系モスクのイマムが、なぜか家を新築し、電気を引き、要りもしない養漁場を作って、村はずれの貧農にカネをばらまいて票を集める。見苦しさに、反対の声を上げる人々は、哀しいかな、原理主義に走り、宗教を利用して抵抗する以外にない。
 急進的な原理主義が、民主制にあってはならない「暴力」を使わざるを得ないところまで追い込まれていく。

 思いもかけないやりきれない悪循環を目の当たりにして、日本の間接的な加担が惜しまれた。
 しかし、当時の日本は、まだ、格差の少ない、平準性の高い国だった。しかも、開発途上資金は、かつてに日本の侵略国に対してより多く支払われていた。日本にしてみれば、よく言えば罪滅ぼし、悪く言えば、口封じのカネだったのだと思う。

 どうせカネを使うのなら、なぜはっきりと侵略への謝罪をしないのか、、、、まあ、日本流の、言葉の外交ではなく情に訴える外交か、、、それにしても、それでは歴史には刻まれていかない、、、、、と釈然としない思いでいるうち、日本社会そのものがおかしくなっていった。一億総中流と言われたのは、今では、夢のかなた。「貧困」が問題になるなど、いったい、20年前の日本人のだれが予想していたことだろう。しかし、そうならざるを得ない、内側の矛盾は、日本にはずっとあった。金融危機がどうの、グローバル化がどうのという以前の、日本社会の民主性の基盤そのものが、初めから疑わしい質のものだったのだ、と思う。外的要因が今の日本を生んだのではなく、内側に巣くっていた問題が、グローバル化と金融危機によって見事に露呈しただけだ、と私は思っている。

 有識者会議への関心が熱心だ。
 非正規雇用者への保険制度、子育て支援などで、貧困層への支援策が浮上している。
 なぜか、マレーシアの村で見た、成り上がり村長と、最貧農民の関係を想起してしまう。そうでなければいい、と思いつつ、「有識者会議」のあり方は危ない、と思う。

 「貧困」が世の中の話題になっているだけに、ここに目を付け、庇護のスタンスをとることで、日本社会の本質的な問題、戦後政治の本質的な誤りから、目をそらさせようということらしい、わたしにはどうしてもそうみえてしまう。

 権力者の「貧困」利用は、マレーシアに限ったことではない。

 開発途上国援助の専門家である夫に伴って、アジア、アフリカ、ラテンアメリカで15年を暮らした。
 食うや食わずの遊牧民を定住化させ、食物ではなく「綿」を作らせる政府。不作で綿ができなければ、この農民たちには、カネが入るどころか種子購入のために支払われたクレジットへの借金返済が待っている。政府は、借金を返せと追い詰めることもできるし、また、返せと迫らずに、「恩情」を見せれば、この農民らは、政府を支持する。どっちに転がっても権力者には失うものがない構造が既にできている。

 途上国に大きな橋をかけるといって事業を起こす大国は、まず、現地の権力者にカネをばらまく。橋梁工事の予算の半分がこういう現地の政治家の懐に入ったからと言って、橋さえできれば問題はない、そういう開発援助がどれだけごろごろしていたことか。そして、工事を受注するのは、結局は、大国本国の企業だ。これまた、失うものは何もない。

 80年代に、そういう議論は、山ほどあった。日本の開発途上政策は、その後どれだけ変わったのか。議論は、影響を与えることができたのか。
 オランダの開発途上政策は、あの頃大きく変わった。自分たちの社会の機会均等を追及していたオランダ市民は、世界における格差が、やがて世界平和を危うくさせるものであることを、実感として知っていたからだ。

 不当解雇や派遣労働で、こんなにも多くの貧困者を生んでいる日本もまた、どうやら、そういう権力者のトリックでどうにでもなる大衆社会に転落してしまったようだ。

 識者は言う。「近代化は産業化に他ならない。産業化が生んだ社会で、わたしたちはみな被害者、社会に出口がなくなっている。さあ、みんなで考えましょう」と。

 ちょっと待ってくれ、近代化はそういうものではない、、、私は、一人で、そういう心の叫びを聞いている。近代化の本質を人々の目から隠したまま、ただひたすら、産業社会の歯車を作るだけの教育を作ってきたのは、それからメリットを受ける人々が意図的にしてきたことだったのではないか。日本の産業化は、ただ、知らないうちに、そうなってしまった、というようなものではない。意図して、市民を作るという営みを排除してきて成り立っているだけではないか、、、。余計なことを考えずに、ただひたすら、勤労精神に励む人間を大量に作っていれば、経済は安定し、未来は約束される、、、そこには、「指導者」の明らかな「意図」があったはずだ。

 近代とは、人間が、他人の作った既成の価値観から解放され、自分の頭でものを考えること、「良心の自由」に従って生きるという決意をしたことから始まっている。だから、科学が必要だった。一定の、誰にでも共有できる問いを立て、共有できる手続きを持って、結論を引き出す。科学には、だれもがアクセスできなくてはならない、そう考えるのが近代というものだ。だから、近代教育は、「科学」を教える、「科学的な探求の態度と技術」を教えるため、子供が自分の力で学び続けることができる大人になれるように「育てる」ために生まれたものだ。しかし、哀しいかな、どの先進国でも、近代教育は、短時日のうちに、産業振興型の競争画一教育へと変容を遂げてしまう。

 
 産業化は、科学振興によって生まれた技術が可能にした拡大生産の結果であり、拝金主義は、近代の本質を忘れて産業化にまい進した人間の愚弄の結果にすぎない。人間の知恵が生んだはずの産業が、人間の尊厳を奪い去った。だから、ここから、どうやって足を洗ったらよいのか、、、、

 私たちは、働くために生きているのか、生きるために働いているのか、、、。男と女の分業は、カネのためか、それとも、よりよく生きるためか、、、。
 よくよく考えてみなくてはならないと思う。

 拝金主義から足を洗わない限り、「貧困」は政治に利用されるし、どっちに転がっても勝ち目のない戦いとなる。だから、危ない。カネがなければ息の根を止められるほどに貶められた貧困は、人間が、誇りを持って生きることを許さないだけに危ない。

 貧困を生まない、貧富の格差を生まないことを最優先してきた、デンマークやオランダ、そして北欧の国々の制度はだから強い。持続可能性のある社会とは、貧困を絶対に生み出さないシステムのある社会だ。

 いよいよ、日本の民主性を問われる正念場がやってきた、そう見える。

 貧困は、「民主的な社会」の健全さを保つためには、絶対に作ってはならないものだった。
 それを生んだ日本の政治は実に醜い。それを放ってきたマスメディアはさらに醜い。
 知っていながら、分かっていながら、この期に及んで「独善」と「シニシズム」に浸る知識人は、風上にも置けない。