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2009/04/28

民主的な社会意識は育てられねば育たない

 「民主主義」という語を日本で使うと、いまさら何を言い出すんだ、というような、煙たそうな顔をされる。
 以前、本の企画書を作って、ある新聞社の特派員に見せたら、そこに二,三「民主的な」という語を使っていたのを見て、「へえ、直子さんって硬い言葉を使うんですねえ、そういう人だったんですか」と言われて、ちょっとびっくりしたことがあった。

 確かに、「主義」などという言葉を見ると、それだけで拒否反応、という人はいるのかもしれない。私も「主義」とか「イズム」という語は、いささか好戦的な感じがするので、あまり好きではない。

 だが、民主主義の原語であるデモクラシーという言葉は、オランダでもフランスでも、少なくともヨーロッパ一円では、新聞やテレビで、また、日頃の会話の中でしばしば飛び出す、ごくごく日常的な言葉だ。

 革命によって王制を倒し、デモクラシーを実現したことが、現在の国家の起源となったフランスでは、郵便物に貼る切手一枚一枚にデモクラシーという、米粒よりも小さな文字の語が印刷されている。

 日本では、民主社会は、敗戦後の占領期に、「民主主義と自由の国」アメリカの指導のもとで、教育、農業、経済など、さまざまの分野で、民主化への制度改革が行われた時に「実現された」と思っている人が少なくないのではないか。だが、「民主社会」とは目標として到達される完成形としての「制度」というような静的な状態をいうのではない。人々が、常に、支配者の独裁や、人々の口封じをする暴力を用いる人が出てこないように、言葉の力で議論をし続けること、社会の不公正を日の下に明らかにし続けることができる状態そのものをいう。そのためには、制度があるからといって安心していられるものではなく、何より、当事者である社会の成員一人一人が、その大切さを自覚していて、いつも崩れないように見守っていてこそ成り立つものだ。

 60年に余る「戦後日本」の、一体、いつ、どこでそういう状態が実現していただろう?

 この問題は、民主化というスローガンをあげ、民主社会を求めていながらも、なぜか、他者との対話を続けることより、「独善」のうちに走り去っていったいくつもの団体が生まれた60年代70年代の日本の姿からも伺える。「独善」はそもそも民主主義にはなじまない。
 日本は、あの頃、アメリカの力を借りずに、自分たちで「民主社会」を築くだけの力と意識をまだ十分に持ちきれていなかったのではないか、本当に民主的な社会を求める人々の意識や運動を支えるだけの成熟した力をもっていなかった。民主制を求める声も意思もあったのに、それがつぶされていったのは、ひとつには、極東にあって、アメリカという大国の前に屈するしかない新進の民主国家であったこと、
、もう一つには、戦時中の物資不足と疲弊によって、経済的な回復を求める心が、やがて人々を拝金主義に向かわせていることに、気付けなかったからではないか、と思う。

 それでは今はどうか、、、?
 格差の広がり、貧困の増大は、人々の意識の中に「民主社会」を希求する力を静かに育て始めているのかもしれない。物質的な豊かさが失われたことで、人間にとって大切なものは何なのかが、ようやく私たちの意識に昇り始めてきたのかもしれない。それにしても、ここまで来てしまった社会で、貧困にあえがなくてはならない人たちの犠牲はあまりに大きい。なぜ、ここまで放っておかれなければならなかったのだろう。

 六〇年代七〇年代の世界の動きを、せめて、アメリカだけではなく、ヨーロッパの動きをしっかりとらえていたならば、こんな風にはならなかったのではないか、という思いがよぎる。でも、今から始めても遅すぎるということはあるまい。

 「民主的な社会意識」は、国語や算数や理科などと認知的な科目の知識や技能を教えるのと同じように、大人によって「意図して育てられなければ育たないものだ」と、オランダのシチズンシップ教育の研究者は言った。育てられるべき「民主的な社会意識」は、「独善」「分極化」に敢然と立ち向かう心の動きを養うものでなくてはならない。それは、人間の心や頭に、生まれつきインプットされたようなものではない。知識として、民主社会の姿を学び、実践を通じて、学校という守られた場所で行為として実施してみなければ、民主社会を支える市民の行動は育たない、という。

 私たちが学校で学んできた、ホームルームのディスカッション、生徒会の話し合いなどに、本当に、市民意識を育てるものはあっただろうか。個性の見えない制服を着せられ、けたたましいベルが鳴れば、あわただしく席に着き、みんなで一斉に教科書を開き、教科書の中身にも、先生の話にも疑問をさしはさむことなく、ただただ、受験勉強のために、朝の補修、授業、夜遅くまで練習問題を解かされる毎日に、「市民とは何か」と考える時間はあっただろうか。

 民主社会とは完成された到達目標となるような形のあるものではない。そうではなく、人々が、社会の行方を決定するために一石を投じられる、自分が声を上げればその声は誰かほかの人に必ず聞かれていると感じている状態、そのために、意見の異なる人々と対話によって意見交換をし、より深い議論へと発展させたいと感じることのできる状態のことを言う。
 カリスマ的な威力を持つ人気者に物事の判断や決定をすべて託したり、独裁的な支配者の前でみずからの無力を感じ、支配者のなすがままに任せる以外にはない、と感じている状態は、民主社会ではない。支配者、独裁者が、一人でなく、巨大な官僚制度であってもそれは同じだ。民主的な状態とは、その社会にいる人々が、それぞれ公平な立場で、自分の心に忠実な意見を忌憚なく述べ伝えることができ、同時に、忌憚ない意見を述べる人に、他の人々が耳を傾ける意思を持っている状態を言う。

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 ワークシェアリングをめぐって、再びオランダのポルダーモデルが注目されている。

 しかし、日本人が、増え続ける失業問題や雇用問題の解決策として、何か、完成された制度、マニュアルとしてのワークシェアリングを求めるのであれば、それは、ポルダーモデルの本質を見誤ったものであると思う。ポルダーモデルは、本質的に、社会の成員が、それぞれの役割や立場から、同等の発言権を持って参加し、同じ水平的な関係の上で互いを尊重しあうことによって、共通のビジョンに向かって知恵を出し合うためのものだからだ。日本のエリートが形だけを模倣して植え付けられるようなものではない。

 そもそも、ポルダーモデルで歩み寄ったとはいっても、政労使のうち、政治家と企業家は、それまでだって十分に発言権を持った人たちだったのだ。政労使の中で、最も大きな困難を乗り越えなくてはならなかったのは、意見の違いを乗り越えながら団結し、聞かれない声を集めて聞こえるようにし、権威的な相手に対等な立場で人間の尊厳に基づく要求を突きつけてきた労働者たちだった。
 七〇年代の労働党に対する支持の高まり、そして政権の獲得、それを支持した知識人やマスメディアがあって、ポルダーモデルの実現の道は開かれてきた。ワークシェアリングを実現した八二年のワッセナー合意の時代も、労働党が果たした役割は大きかった。

 西ヨーロッパの国々もまた、当時、冷戦体制の中で北大西洋条約によって、アメリカとの軍事提携の中にあった。それなのに、アメリカとは異なり、社会主義を受け入れ、福祉制度を整えることができたのは、この地域が、人種差別や独裁の歴史に対して、敏感で謙虚な反省と自己批判を続けてきたからだろうと思う。複数の異なる国が、共存していたことも、お互いの内なる社会にある問題を見直すのに役立つものだったのだろう。差別されやすい人々、弱い立場の人々の声に耳を傾けようとする人々がいたし、その声を伝えるマスメディアがあった。二度と再び、差別と殺戮の歴史を繰り返してはならない、という固い意志をもったリーダーたちがいた。


 ヨーロッパがアメリカと異なるのは、その点だと思う。それが、ヨーロッパの社会民主主義をかたちづくってきた基盤だ。

 そういう背景の中から生まれてきたワークシェアリングは、だからなおのこと、企業家の利益だけ、雇用の安定した正規職員の既得権益だけを考慮した保守政権などには、逆立ちしてもまねのできるものではないと思う。

 日本がそこから何かを学べるとするならば、日本人自身が、いま日本が置かれている世界の中での位置や立場を見据え、日本の世界に対する責任と役割を認めること、また、その共通の展望を持って国内にいる様々の立場と役割を持つ日本人自身が、お互いの意見を出し合って、その時々の最善の選択をしていく、そういう関係を維持し議論を続けていくという覚悟をすることではないか、と思う。
 欧米に追い付こうとか、乗り越えようとか「競争」することよりも、周囲の国々との共存と協調に目を向けてみる時期なのではないか。行き過ぎた産業化の中で、あとに残し忘れ去ってきた人間一人ひとりの尊厳や人としての心の豊かさ。追いつけ追い越せの産業化は、人間の社会を激しく非人間的なものにしてしまう。その同じ轍を踏み始めている国が日本の周りにはいくらもある。日本の経験は、生かされるべきだ。

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 「和魂洋才」のスローガンのもとに、西洋の「技術」を取り入れることに専心してきた日本。しかし、「魂」の部分は微動だにせず、そして、その「魂」とは、伝統の中にあるタブーにはふたをしたまま一切の議論を寄せ付けず、また、本音と建前を使い分ける権威主義にも触らぬまま、そして、個々の日本人の思いや福祉を犠牲に日本流に見事に統一されたトップダウンの意思決定が無駄なく行き渡る社会を外からまんまと利用しようとしたアメリカの権力こそが何より得をしたシステムだった。そして、このシステムは、今も厳然として続いている。

 いま、経済不況、流行病の蔓延、環境破壊、自然災害の増加と、人類社会に挑んでくる様々の問題に直面して、世界は、国境を越えて協調する時代に入り始めている。自国の利益だけを求めて、途上国の貧困を放置すれば、世界の紛争は絶えることなく、紛争解決と流出する難民の受け入れのために、先進国の経済はますます圧迫を受けることだろう。地球上のすべての人々の福祉と平等を実現しなければ、人類社会に紛争の種はなくならない。
 紛争の種がまかれ、芽を出し、幹として育ち始めている世界に、同時に核兵器の危険は減るどころか増大し続けているという。

 しかし日本は、日本という小さなスケールの社会の内側ですら、「協調」を知らない。子どもたちに「協調」して生きることを教えようとしていない。教えているのは、産業社会を支える歯車として「同調」することではあっても、一人一人の子供のユニークな個性を育て、その一つ一つの個性が活かされる社会参加の機会を大人たちは子どもに約束していない。

 国際社会での協調社会への歩みは、今やっと始まったばかりだ。実現まで長い長い時代が待っている。

 協調には対話が求められる。

 対話を続けること、プロセスとしてのデモクラシーを受け入れることが、日本人一般に強く求められる時代になっている。日本が、本当に「近代的な先進国」の一員であることを世界に示し続けるためには、一人でも多くの日本人が、対話への意欲を示し、実際に対話のできる力を持たなくてはならないのだろう。そうでなければ、日本は、ますます世界から孤立する。ひょっとすると、その前に、日本という社会システムそのものが崩壊してしまうかもしれない。

 対話の能力は、外国語の会話力などがあればいい、というような軽率なものではない。

 日本が、民主的な世界の一員になれるかどうかは、自分をそうたやすくは理解しそうもない相手とそれでも対話をしようとする日本人、黒白の決着のつかない宙づり状態であっても、結論が見えなくても議論と対話を続けていくという、一種の楽観に支えられた、能動的な対話のプロセスの緊張に耐えられる日本人をどれだけ育てることができるかにかかっていると思う。

2009/04/20

小国の方がいいこともある???

 かつてサッカー選手として世界に名声をはせたオランダ人ヨハン・クラウフ。
 彼は、選手をやめてからもバルセロナのサッカーチームの監督をし、また、オランダでも、サッカーの重要な試合があるごとに解説者として登場する、いわば「サッカーの神様」のような存在となった。日本でもサッカーファンなら一度は聞いたことがある名前だろう。実際、現役中のクラウフのプレーは、今ビデオで見ても、華やかで美しい。
 
 ただ、天は人に二物を与えない、というか、彼は、オランダ語の方はあまり得意ではなかったらしい。サッカーの試合の解説中にポンポン飛び出す、文法も論理もめちゃくちゃな彼のものの言いまわしは、かえって、彼が何を言おうとしているかがよく分かるだけに、逆に「的を得た表現」しかも「面白おかしい表現」として名言集が作られるほどとなった。

 そんな中でもとくに有名なのは「どんな難点にも必ず利点がある」というもの。
 まあ、クラウフが言いたかったのは、「どんなに苦しく困難な状況にあっても見方を変えればそれをよい方向に動かす力が引き出せるものだ」というようなことだったのだろう。もちろん、もとはサッカーの試合の解説だから、プレー中の状況を言っている。だが、あまりに物事の核心をついたこの表現に、オランダ人はすっかり喜んで、流行語に仕立て上げた。流行語というより、もう、オランダ人の中には知らない人はいない、というほどの哲学的(?)名言となった。
 たぶん、大きく譲って「どんなことにも難点と同時に利点がある」と言えば、論理的には受け入れられる表現になったのだろうが、それをすっ飛ばして上のような表現にしたことが、かえって人々に訴え、大爆笑と共に、オランダ人の多くが、何かにつけてこの表現を口にするようになった。

 それにしても、オランダ人にはもってこい、オランダ人が喜んで使うはずだ、とつくづく思う。

 オランダ人らは、その昔、ぬかるみの湿地帯、海とも陸とも思えない河口デルタ地帯を堤防で囲い風車で干拓して、人が住み、生業をして生きていける土地を作った。よほど食えない人々がこの土地に集まってきていたのだな、と思う。もともと、移民の国なのだ。もともと、既存の体制的な権力や権威を嫌う人々がいる。そういう場所に、どこよりも先駆けて「市民」の国ができた。

 つい先ごろ、ある雑誌の中で、またオランダ人の面白い言葉を発見した。

「小さな国の利点は、大きな外国を持っているということだ (The advantage of a small nation is that she has a great foreign place)」

 これなど、小国の負け惜しみにしてはあまりに極端なので、つい気の毒になり、同時に、スカッとした気分になる。ヨハン・クラウフなら、真剣な顔をして大きくうなづきそうだ。
 この言葉は、かつて、外国人から、オランダにはなぜ外交のために二人の大臣を置いているのか、という質問に応えて、ヨセフ・ルンスという元外務大臣で、NATOの事務総長にもなったオランダ人政治家が応えていったものだそうだ。

 外交のための二人の大臣とは、ひとりは、外務大臣のこと、もう一人は開発協力大臣のことだろう。

 オランダは、世界を向いている。オランダはいつも世界を向いてきた。
 現に、オランダが地球の表面積に占めている割合は、0.008%だが、経済的な地位は世界で第16位なのだそうだ。開発途上国への協力は、世界でも常に1,2位を争う。こういう外交を、大国に依存してではなく、小さくとも、独立して、多方位外交でやってきたというのだから見事だ。小国オランダの国民が自慢したい気持ちもわかる。確かに、連合政権で、コーポラティズムのオランダは、そのために、政策が常に左右に揺れ続ける、見方を変えれば典型的な「日和見政治」と言えなくもないが、少なくとも、自分たちの力で、自分らの国を守っていこうという姿勢だけは模範にしたい。

 さて、日本はどうか。
 アメリカ経済が日ごとに傾いていく中、日本ももうアメリカには頼っていられそうもない。アメリカに依存しない日本は果たして「大国」なのか「小国」なのか。

 もしも、ヨセフ・ルンスの言葉に従うならば、「小国」である方が、利点があるようだ。

 パラドックスとはこういうことを言う。パラドックスを見極めるには、相対観が必要だ。物事に対して、相対感を持ち、パラドックスを読み取ることができれば、おのずと未来への道は開かれていく。「小国」と言ったって、日本は知恵のある人材を何十万と抱えた人的資源の質の高い国だ。みんなが力を合わせ譲り合って知恵をしぼりだせば、日本人にしかできない未来を拓く方法が必ず見つかると思う。

 日本は、自らを過大評価する人為的に作られた「大国主義」や「大国依存」を捨てて、そろそろ、虚心坦懐に「小国」の利点を無駄なく最大限に利用していく時代に来ているのではないか??? 日本を守るのは、日本人しかいない。そのためには、みんなが、忌憚なく発言でき、マイノリティの声が聞こえる議会制民主主義の社会がまず何よりも必要だ。



 少なくとも、小国の人間は、偉そうな態度をとならないから外国でも付き合いやすい。