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2009/03/26

ペーターセンとフロイデンタール:生き様という教育  

 世相が悪くなると優れた教育者が出てくる。「教育」は未来だからだ。

 世の中が乱れ、未来社会の行方が描けなくなるとき、人は、理想の未来を生み出そうとする。そして、理想の未来とは、今育っている子どもたちのために、理想社会を学校の中に体現することによって、かならず一歩近づいてくるものだ。そして、それは、子供に対してというより、大人が、自分自身、真実に従って生きるということであるのだと思う。


 イエナプラン教育の生みの親ペーター・ペーターセンは、二つの大戦の間のドイツ、経済不況で人心が腐敗し、政治家も軍隊も規律とモラルが荒みきっていた時代に、民主的な社会の理想を掲げ、異年齢学級を基盤とした自立と共同の涵養を何よりも追求した教育理念を作り上げようと努力した。

 ペーターセンが、「小さなイエナプラン」という、ほんとうに小さな、けれども、イエナプラン教育の関係者の間ではバイブルのように読み続けられている本には、次のような珠玉の、しかし力強い言葉が残されている。

将来どんな政治的、経済的な状況が生じるか、私たちは誰も知らない。
未来は、人々の不満、利益追求、逃走、そして今の私たちには想像のできない新たな経済的、政 治的、社会的状況によってきまるだろう。
けれども、たった一つ確信をもって言えることがある。
すべての厳しく険しい問題は、問題に取り組んでいこうとする人々がいて、彼らにその問題を乗り越 えるだけの能力と覚悟があれば、解決されるだろう、ということを。
この人たちは、親切で、友好的で、互いに尊重する心を持ち、人を助ける心構えができており、自  分に与えられた課題を一生懸命やろうとする意志を持ち、人の犠牲になる覚悟があり、真摯で、嘘 がなく、自己中心的でない人々でなければならない。
そして、その人々の中に、不平を述べることなく、ほかの人よりもより一層働く覚悟のある者がいなく てはならないだろう。

(ペーター・ペーターセン「小さなイエナプラン」(1927)より、訳:リヒテルズ直子)

 このペーターセンの教育は、戦後、ヨーロッパの中でも民主意識が遅れていたといわれるオランダで、60年代になってやっと未来の理想社会に向けて、若者や知識人が大きく軌道を修正し始めた時代に、スース・フロイデンタールという女性によって紹介された。

 彼女は、ナチスドイツの占領下にあったオランダで、迫害されたユダヤ人の数学者を夫に持っていた人だ。夫が捕虜として収容所に連行されて帰らなかった日々、ヒトラーが優勢種としたアーリア人の血が自分に流れていることを、彼女はどれほど苦々しく思っていたことだろう。戦争が終わって41年後、ユダヤ人だった夫ハンスが、スースの葬儀に際して残した言葉は、この女性の強靭さと女々しさのない深い愛情がうかがえて深い感動を覚える。

最愛のスースへ

僕は、今、こうして永遠の眠りについてしまった君に、最後の言葉を送ろう。僕は、この厳しい日々 に、君との間に生まれた子どもたちや友だちが僕を支えてくれているおかげで、ここにこうして立っ ているのだよ。

君が、この世界に、そして、何よりも教育の世界にもたらし、これからもずっと持ち続けるだろう意味 は、多くの人が、その心からの感情を持って語ってくれた通りだ。だから、僕は、君が僕にとって、 ぼくたち にとって、また、ぼくたちの家族にとってもたらしてくれた意味の大きさについてだけ、話 をしよう。

「春の兆しなど全く感じられない冬の夜
見知らぬ国から来た見知らぬ人として、君は、私の前に現れた」

あれは、55年も前のことだ。54年間の間、私たちは、夫婦として結婚生活を送ってきた。君は、私 に4人の子供をもうけてくれた。おかしな言い方かもしれないけど、子どもたちは、君の子供たち だったし、今も君が育てた子どもたちだ。君は、この子たちを食べさせ、養い、見守り、僕が足りな い分までを補ってくれた。11人の孫たちは、私たちの孫だ、と言ってもいいかも知れないね、でも、 やっぱり、大半は、君の孫だ。子や孫と合わせて一同21人がそろってとった金婚式の写真がある。

君は僕にそれ以上のものを与えてくれた。最初の日から最後の日まで、私の方からは、とても、同じ だけ のお返しなどできなかった君の愛だ。僕たちは、愛情も苦しみも分かち合ってきたね。苦しみ については、君は、僕よりも重い方を引き受けてくれた。

こんなに性格が違う二人の人間が、いったいどうして、半世紀以上もの間一緒にいられたのだろ う? お互いに競り合うような、とても接点のない性格の二人が、お互いを補い合おうとしていたのだ ろうか? 君が、こんなにも長い間、僕と共に成し遂げることができたことを、僕は君に対して何か やってきただろうか? 君をぼくは誇りに思っているよ。君も、僕を誇りに思ってくれているかい?

君と共に暮らした人生を思うと、君のいないこれからの人生を想像する力が僕にはない。人間として の感情と浮き沈みに満たされ、そして、どのひと時として、決まり切った旧態依然に戻るようなことは なかった君との人生を。

僕たちは激しい嵐に共に闘ってきたね。そして、最も厳しかった嵐の時、君は、率先して主導権を 握った。君は、何かのために一人で立ち向かっている時にこそ、最も大きな強さを発揮したね。ぼく が、ハヴェルテの収容所にいた時、ウェーテリングスハンスにあった時だ。君は、戦争の中に、こと に、餓えの冬にあった時だ。町や農民をたずねて、食料と燃料を探しに出なくてはならなかった。 君の家族のた めに、そしてそれだけではなく、収容所にいた僕の家族や友人たちのためにも。戦 争が終わってからも何年間も、こつこつ働き続けなくてはならなかったね。それは、僕が、僕の天性 の仕事にもう一度立ち向かっていくことを許された間も、君にとっては、ずっと続いた仕事だった。

半世紀以上もの長い間、僕たちは一緒だった。山や林を共に歩いた。時には子どもたちも一緒 に。天気の良い日も悪い日も。芸術と学問の世界を一緒に歩いた。お互いの好みを認め合いなが ら、長い道を、どこかで、互いの存在を確かめ合いながらね。わたしたち二人を剃刀のように鋭く分 かち、また、同時に深く結びつけ合う、感情という広い世界とともに。

君は本当に何といつも強靭だったことだろう。僕にとって模範のようだった。そして、君の強靭さが 僕を落ち込んでしまった苦境から助け出してくれた。

君の最後の心配は何だったのか知っているよ。ハンスは私なしでどうやってやっていくのだろう?  そう思っているんだろう。心配するなよ、リトル・ガール。君は、僕に、強靭な男の子になれ、と教え てくれたよ。

僕が君よりも長く生きるとは今までに一度も考えてみたこともなかったよ。いや、僕が一人で長く生き ているわけはないさ。君は、僕の思いや感情の最後のひと絞りまで、ずっと一緒に生きていくよ。そ して、僕が今「じゃあまたね」といえば、君は、すかさずに、あの、君の忘れることもできない声で、ま た、こう、僕に言うだろう。「しっかりしなさいよ、ハンス」とね。


Hans Freudenthal, Schrijf dat op, Hans---Knipsels uit een leven--- , Meulenhoff, Amsterdam, 1987より。(訳:リヒテルズ直子)

2009/03/23

日本型ワークシェアリングはどこまで本気か?

 今日の新聞には、突如として、「政労使合意、7年ぶりに日本型ワークシェア推進」という文字が躍った。
 ついこの間まで、企業も政府も、時期尚早と言っていたと思っていたのに、突然こういう合意が成り立ったらしいが、その間の議論はいったいどう展開してきたのだろう。企業は何を求め、連合は何を求めたのか、今日の新聞だけではよくわからない。そもそも、このワークシェア推進にあたって、「一般の市民」は議論にきちんと参加したのだろうか。日本人の中に、「ワークシェア」が意味することを知っているものは、いったい何%いるのか。その本家本元が、オランダのワッセナー合意と言うものであること(オランダでは「ワークシェアリング」という言葉はつかわれない)、その内容は、それはどういう背景で生まれたのか、そして、その後のオランダの雇用状況はどう変化し、どんな雇用慣行が生まれてきたのか、人々は、それによってどういう生活を手に入れたのか、人々の意識変革との関係は(準備段階での議論とフィードバック)、それを知らねば、どこが、本家のワークシェアで、どこから先が、日本型なのかもわかるまい。

 どの新聞も、政府通達を記者クラブの記者が受け取って書いただけなのだろう、似たり寄ったりで、突っ込んだ内容がない。読売の記事はこう書かれている。

「協議には麻生首相、舛添厚生労働相、連合の高木剛会長、日本経団連の御手洗富士夫会長、日本商工会議所の岡村正会頭、全国中小企業団体中央会の佐伯明男会長らが出席した。合意文書は(1)雇用維持の一層の推進、(2)職業訓練など雇用のセーフティーネットの拡充・強化、(3)就職困難者の訓練期間中の生活の安定確保、(4)雇用創出の実現、(5)政労使合意の周知徹底――の5項目。
 『雇用維持』では残業の削減、休業、教育訓練などで労働時間を短縮し、雇用維持を図ることを「日本型ワークシェアリング」と位置づけ、労使合意で促進するとした。実質的賃下げだとして慎重な労組、賃金体系の組み直しが難しいとする企業の双方に慎重論があるが、政府は失業手当などを助成する雇用調整助成金の拡充で、この取り組みを支援する。「職業訓練」では経営側が施設や人材を提供する一方、政府はハローワークの体制拡充や、訓練や研修の強化を図る。」

 さて、これを読んだ新聞の読者は、果たして、元来オランダの元祖の「ワークシェアリング」というものが、正規雇用とパートタイム雇用の区別をなくして、雇用者と労働者との間で、労働時間を個別に設定でき、同一の労働に対しては同一の賃金体系が適用されるものであるということ、言い換えれば、今、週40時間働いているフルタイムの人は、希望すれば、週32時間労働も、週20時間労働も交渉することが可能になる、あるいは、そういう他の雇用機会に転職できるものであること、また、その代わりに、他方で、フルタイム就業は望まないけれども、働けるだけの時間働いて、家計収入を得たいと思っているパートタイムの労働者には、その就業を正規就業化することによって、週16時間労働、週20時間労働などの雇用機会が創出されること、そういうものだということを知っているだろうか。また、フルタイム労働とパートタイム労働とが、時間数だけが異なるまったく同等の労働機会であることにより、それぞれの労働時間数に応じて、有給休暇、出産・育児休暇、保育手当、失業手当、疾病休暇、年金積立制度への参加、など、これまでのフルタイムの労働者と同等に、比率で保障の対象になるものである、ということを。この記事にある「日本型」とは、そういうオランダの元祖のワークシェアリングに対して、果たして、どれほどの亜流であり、どこがどう違うのか、読者は、労働者は知っているだろうか。

 それを知らされずに、「ワークシェアリング」はオランダの経済回復のきっかけになったとだけきかされるのであれば、それはペテンというものだ。そもそも、オランダの雇用慣行の伝統と日本の雇用慣行の伝統の違いがどこにあるのか、そこから掘り起こされなければ、「日本型」も絵に描いた餅だ。
 
 何より、「ああまたか」の気分で、政府広報を書きとめるジャーナリストたちの頭に、そういう疑問は浮かばなかったのだろうか? ワークシェアリングは、何よりも労働者のためのものだ。ただ、企業が経営に失速しては、国の経済基盤が危うくなり雇用も何も元も子もなくなってしまうから、企業の維持・成長要因を残すために妥協するものだ。エリートジャーナリストたちのように、これからもフルタイムで働く、また、職を失う不安もない人たちには、職に就けない若者や、無休残業に追われたり職を中途で失う中高年労働者などの立場に立って質問する気力もないのではないか。そういう態度や意識からは、ワークシェアリングを支える社会は生まれようがない。

1)雇用維持の一層の推進、というが、企業は、具体的にどういう施策でこれを推進するのか?それは、先進の企業が例示できるものなのか。今回の政労使の合意以後、労働者は、こうした点での施策の提示を要求できるのか、それは法規として定められるのか?

2)職業訓練など雇用のセーフティーネットの拡充・強化とあるが、「など」に含まれる他の具体策は何なのか、就業中の事故や疾病に対する法的保障は?熟練中高年労働者のように、訓練を必要としない労働者の中途失業に対するセーフティネットは何か?雇用に男女差別や年齢差別はなくなるのか?

3)就職困難者の訓練期間中の生活の安定確保とあるが、訓練は誰がどういう資金でするのか、その訓練は、一定の企業内雇用機会と連結して行われるのか、訓練期間に制限はないのか、訓練受講資格は、資格のない就職困難者はどうするのか、訓練は誰が行うのか、大学や専門学校などの機関は、この訓練とどのようにかかわっていくのか。

4)雇用創出の実現とあるが、「雇用維持」が、せいぜい残業の削減、休業、教育訓練などで労働時間を短縮する程度で、「雇用創出」は実現できるのか。オランダのワークシェアリングは、雇用維持の中に、明確に、正規契約労働時間の短縮が含まれていることと、日本型ワークシェアの違いは、ここにあるのではないのか。

 ワークシェアリングは、そもそも、議論と歩み寄りの文化を作り上げた上で生まれてきたものだ。ポルダーモデルという、お互いがウィンウィンの関係をうまく創出していく関係は、関係者が、まず、忌憚なく、要求を出し合い、それを、世の中の人々が、じっくりと耳を傾け、さらに、その議論に参加し、そうして、生み出されてくるものだ。建て前と本音を使い分けず、タブーに踏み込んで議論する意欲をみんなが持っていて初めてできる。

 雇用機会の維持も創出も、職についている労働者とついていない、つきたくてもつけない労働者との間に、互いの事情をくみ取って、富を分け合おう、という歩み寄りの気持ち、連帯して日本社会の存続を守ろうという意識が育たなくては実現不可能なはずだ。

 そういうプロセスを、政府はともかく、労働者も企業も、内部でじっくり話し合ってきたのだろうか。それをこそ、新聞は丁寧に追いかけ、国民の目に曝す役割を負っているのではないのか。

 5番目に、「政労使合意の周知徹底」とある。日本では、何か事が決まると、すべて、政府とつながった官僚が上から管理してくる体制がある。しかし、ワークシェアリングの斬新さは、政府が、労使の間に立って、3者それぞれが当事者となって合意するところにある。であれば、当事者の一つである政府には、管理を任せるわけにはいくまい。それでは、公正さを欠く可能性があるからだ。そのためには、合意書の中に、あるいは、それに付随して、「周知徹底」の方策が何なのか、国民に納得がいく形で、明記しておく必要があるのではないか。

 思いつくままに並べただけでも、ジャーナリストらに聞いてきてほしかったことが、山ほど浮かんでくる。

 とにかく、合意書原文を、一日も早くネットにあげてほしい。そうすれば、議論の叩き台ができる。

 願わくは、このアクションが、現政権の最後のイメージづくりに終わり、政権交代とともに、またもや、ポイ捨てされることがないことを祈る。なぜなら、現在の日本の経済危機を救える、数少ない方策の一つが、ワークシェアリングであると思うからだ。その大事な方策を、もっと大事に導入してほしい。もっと、国民規模の議論を起こしてほしい。マスメディアの自覚が望まれる。この日本の危機を本気で救いたいのならば、今日のニュースに続いて、国民の声を引き出しながら、徹底した紙上や公営放送の場での、3者の立場を公平にメディアに乗せた議論が、続けられるべきだと思う。そうしてこそ初めて、他国に誇れる「日本型」ワークシェアリングの実現、そして、その成果を生み出すことが可能となるはずだ。




ネイチャーとカルチャー

 オランダの話をしていると、日本人にはよく「でも文化が違うからね」といわれる。確かにその通り、「文化」が違う。しかし、異文化の議論には、「人間はどこにいても同じ」という常套句もある。

 ネイチャーとカルチャーという言葉が対語であることを知ったのは、子どもたちの中学校での地理の授業がきっかけだった。あ、そうか、と膝を打つ思いだった。

 ネイチャーnatureという語は、nationという語にも関係があるし、nacer (生まれる)というスペイン語にも関係が深い。ラテン系の言葉だ。「土着の」というような、何か、土から生まれ出るような意味があるらしい。したがって、natureとは「自然」そのもの、ひいては、「自然界の摂理」につながったことを、naturalと言う。
 これに対して、カルチャーcultureの方は、何か、人間が自然の一部、自然に働きかける時に生まれる作用を指す言葉であるらしい。「人為」のものをカルチャーcultureという。agriculture(農業), horticulture(園芸), aviculture(鳥類飼養)などの言葉がある。いずれも、自然のものに対して、人が人為をめぐらして働きかける活動を指している。

 ネイチャーは動かし難いが、カルチャーは環境(場)や時代(時)とともに変わる。

 では、人間の生まれつきの(自然の)質とは何だろう。人間が複数集まって集団をつくった時に、起こりやすい社会的現象とは何なのだろう。
 人間の本能としての、様々の生き(延び)るための行為、種の保存にまつわる性をめぐる行為などは、まさに、ネイチャーの代表的なものだろう。外界からの圧力で、生存の危機に陥る時に、人間を戦闘的な行為に仕向ける欲求も、また、その危機がいまだに現実には存在していなくても怖れを感じたりおののいたりする感情もその一つだ。

 ネイチャーは人間の力では動かし難い。けれども、望ましくないネイチャーのさまざまの現象を、管理したり、予測したり、利用したりすることはできる。それが、カルチャーなのだと言ってもよいだろう。
 ネイチャーは、人間の力では変えることができないが、カルチャーは、その時代時代の人間や人間社会の求めているものによって、姿を変え形をかえ、言うならば柔軟に発展を遂げていくべきものなのだ。

 そうだとすれば、、、

 「文化(カルチャー)が違うからね」と、ものごとの変革をハナからあきらめることは、それ自体、カルチャーというものの質を知らない、人間の誤り、怠慢というものに他ならないではないのか。

 異文化接触とは、異なる文化がぶつかり合う様を言う。

 今、さまざまの文化が、現に、人の流れと情報の流れを通じてぶつかりあい、お互いに変容し合う時代にある。そんな中で、「わが国の文化は違うから」と外の文化に一瞥をくれる気もない人がいる。それはおかしい。

 人が動き情報が飛び交うというのは、一つの、時代の流れだ。そういう時代に私たちは生きている。その時代にあって、放っておけば何をしでかすかわからない人間の本生、人類の傲慢、その傲慢から生まれた自然環境の破壊、などなどの問題に取り組むのも、ほかならぬ私たち人間でしかない。そして、そういう時代に生きる知恵を見つけること、それ自体が、新しい文化なのだ。未来の文化発展はそこからまた導かれる。

 異文化に接触し、それを通じて自身の文化を見直し、さらに、今、自分たちが生きているさまざまの自然と人為の条件の中から何を選択していくのか、それこそが、人間が考えるべき課題なのだと思う。

 西洋の人々は、航海を通じて外界に出始めた時から、世界各地の様々の文化現象についてのコレクションを集め研究を重ねてきた。その伝統は、何か、世界で重要な事件が起きた時に、それを解説できる専門家がいること、また、一般市場での売れ行きにかかわらず、重要な研究者の外国研究は、国が間違いなく網羅して集めるという態度にも表れている。

 日本には、公的機関にも民間市場にも、そういう万遍のなさがない。だから、自文化中心主義に陥ってしまう。他と比べたからなのではなく、他を知らないままに不安が募ってそうなってしまう。

 日本の伝統文化には、確かに美しいもの、優れたものも多い。だが、新しい変革を求める人為の働きがなくては、過去へのこだわりを人々の間に増長させ、未来への希望のない社会を生むだけだ。
 

2009/03/19

越中富山の薬売り

 こんなタイトルをつけたら、なんと古い人間か、と思われてしまいだけれど、、、

 私がまだ物心ついて間もない頃まで、家には、時々、薬売りのおじさんが来ていた。家には、小さな引き出しが付いた常備薬の木箱があり、母は、このおじさんがやってきて玄関に斜交いに腰掛けて風呂敷包みを広げ始めると、奥からその箱を持って応対に出てきた。一粒一粒少しずつ大きさが違う丸薬や湿布薬が入れてあったように思う。丸薬は頭痛薬、消化剤、の類だったはずだ。

 風呂敷包みを広げるおじさんは、箱の中の薬を見て、なくなっている分を数え、それにまた足していくというだけだ。いったい、それがいくらのお金になっていたのだろう、と思う。

 たぶん、思い返してみると、あれは、60年代の初めごろまで続いていたのではないか。

 薬は効かなければ使わない。使わなければ減らない。減らなければカネにならない。こんなわかりやすい商売もない。こんなに嘘のない商売もないと思う。丹精をこめて一粒一粒丸めた薬は、効き目がなければカネにならないのだ。

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 講演をするたびに、なぜか、私は、この「越中富山の薬売り」という言葉がいつも頭に浮かぶ。丹精をこめて書いた本に嘘はない。嘘がないから「これは効きますよ。きっと役に立つ。騙されたと思って買って読んでみて」と心の中でつぶやきながら、自分の本を重ねて、講演をしている。書店で手に取ってもらえないなら、こうして自分で売るしかない、と。

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 金融危機は、この10年ほど続いた産業のグロバリゼーションが、世界中に、どうでもよい水増し価値の商品をばらまいてきたことを人々の前に露呈させた。あるはずもない価値に、あるはずもないカネが投資され、あるはずもないブームを引き起こす。ヴァーチャルな世界の膿が一気に溢れだした。

 思えば、あの、越中富山の薬売りの時代に比べて、モノづくりの良心は、それからの時代、ほんとうに地に落ちてしまったのではないか、と思う。モノにも仕事にも、実際の価値の何百倍のカネが報酬として払われることに人々は何も不思議を感じなくなってしまった。モノの価値、カネの価値に対する判断力がマヒしてしまったのかもしれない。反面、本当に価値のあるモノや人が、不当に軽視される風潮も作られてきた。


 人類が、みんなで一緒に、ぜい肉を落とす作業、本当に大切なものは何なのかを見極める作業を始める時期に来ているらしい。

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 かつて、経済発展の入り口に立っていた日本人は、品質の高さを追求することで、製造業に成功し、世界に市場を広げていった。それは、もしかすると、徳川時代に培われた地場産業の向上精神が基盤にあったのかもしれない。品質に対する誇りが、日本人の誇りだった。まさに、「効く」丸薬への誇りそのものだ。

 だが、それが、いつの頃からか劣化の一途を辿ったのは、政権の姿にも象徴される。

 政治的リーダーとしての人間の質、マスコミに書かれる記事の質、公共・民間の仕事の対価に対する責任、学者や官僚の責任、それらに、「これは効くから使ってもらえる、そうすればカネになる」と信じて背中に丹精込めて作った薬を背負ってきた人たちの心意気に筆頭するものは、本当に少ない。皆が、自分の責任をよそに、悪者探しをし、世の中はバラバラに崩壊し、いつまでたっても一つにまとまっていかない、、、、

 けれども、時代は変わりつつある。世界は、大きなうねりを作って変わろうとしている。変えなければ、という人々の思いが、情報のグロバリゼーションのおかげで、ものすごいスピードで、地球上の人々をつなぎつつある。その流れに私たちもつながっていなくてはいけない。私たちなりに、2本の足でしっかり地に足を踏みしめて、、、


2009/03/17

インクルージョン

 インクルージョンという言葉がある。
 インクルードとは「含む、包括する」という意味、人間関係でいうなら相手を「受け入れる」という意味だ。つまりインクルージョンは「包括」「受容」という意味になる。
 インクルージョンという語は、けれども、訳をせずに、そのまま社会関係の用語、教育に関しては一つの術語として使われるようになってきた。
 日本では、これは軽度発達障害児を普通校で指導する「特別支援」教育の術語として狭く使われている。おそらく、1994年にスペインで採択された「サラマンカ声明」がきっかけとなり、世界の多くの国で、特別のニーズを持つ子どもに対する「特別支援」教育の必要と強化の動きが、この点で、非常に後れをとっている日本にも、一種の外からの圧力として及んできた結果であると思う。

 しかし、「サラマンカ声明」にしても、もとはといえば、「人権宣言」の精神の、教育面における具体的な表明にすぎない。すべての子供に教育の機会を、というのは、すべての子どもの人権としての発達の機会を保障せよ、ということなのだ。

 インクルージョンの議論は、オランダでは、実を言うと60年代に議論され始めている。そのきっかけの一つとなった本に、ブールウィンケルの「インク―シブな考え方」という本がある。一刷目は1966年にすられているが、わたしが古書店で手に入れた本は、1971年に出た第14刷目の本だ。とにかく、当時、ものすごく売れた本であるらしい。副題に「新しい時代は新しい考え方を求める」とある。

 中身をみると、教育のことではなく、もっと広く、社会全体のものの考え方を議論したもので、インクルーシブな考え方を、同調主義、寛容、平和主義、アブノーマルな行動、相対主義などと比較している議論が、実に、挑戦的で、当時の時代の雰囲気を垣間見せる、また、人をわくわくさせるような「理想主義」を感じさせる本だ。

 あの、若者たちの「理想主義」が元気良く飛び交った時期、「インクルージョン」の思想は生まれた。
それは、それまで、無言のうちに「排除される」人々、思想をも、受け入れていこう、という意志であったと思う。当時、それまでタブーだったさまざまのことが日の目に引き出され議論されるようになった。

 安楽死(尊厳死)、女性の権利、フリー・セックス、同性愛、などだ。

 タブーというのは、現実には起こっており、皆承知していて見て見ぬふりをしているもの、ということだ。

 だから、タブーを日の目に出した、ということは、ダブルスタンダードを受け入れることを拒否した、ということだ。つまり、タテマエとホンネを分けて話すのは、もうやめようじゃあないか、と。

 そういうこの時代の人々の理想主義的な意思の源は、ヴォルテールの言葉(といわれて有名な)に象徴される、近代化の黎明期の啓蒙主義に元をたどることができる。

 それは、「わたしはあなたの意見には反対だ、だが、それを主張する権利は命をかけて守る」という言葉だ。


 インクルージョンとは、単なる「特別支援」教育の術語ではない。それは、人間の発達の歴史を通じて、今も脈々と流れる、近代人の心構えの核になるものなのだ。

―――――――

 インクルージョンを、だから、学校でも、技術・制度としてとらえてほしくない。
 学校そ言う存在、学校に集まる、教育をめぐる大人の共同体、そのものが、「インクルージョン」の精神を、自ら体現していなくては、高々「特別支援」教育の格好をつけてみるだけでは、何も真意は子どもたちに伝わらない、ということだ。

 インクルージョンを体現できる学校とは、すべての子供が、ありのままで学びに意欲を持ち、学ぶことに喜びを感じられる学校だ。自分自身の発達のために、懸命に、ベストを尽くすための環境が整っている場所であることだ。そういう状況を作り出すために、それでは、大人はどうしたらいいのだろう。

 すべての教員が、ありのままで子どもの発達を支援することに意欲を持ち、喜びを感じられる学校であるべきだ。先生自身が、その職業の向上のために、懸命に、ベストを尽くすための環境を保障されていること、そして、お互いが、そういう姿で働くことを、尊重し合える(インクルード)ことに他ならない。

 そして、子どもの発達を見守る場として、教員と保護者とが、ともに、互いに協力して(お互いにインクルードして)、子ども自身が、もって生まれた能力を最大限に発揮できる大人になるようにと、手助けをする場でなくてはならない。

 それなのに、どうして、日本には「モンスター・ペアレント」が生まれるのだろう。
なぜ、先生は、「最近は子どもの親がなっていないんですよ。家庭教育が何もできていない。私にはとても手に負えない子供たちばかり」としか言えず、なぜ、保護者は「この頃の先生は、みんな、何を考えているのやら、、、、」としか言えないのだろう。

 なぜ、先生は「お母さんも大変ですね、今の世の中、働かないわけには行かないし、みんな自分のことしか考えずにばらばらだし、、、一緒にお子さんのために考えていきましょう」と保護者を包み込み、保護者は「先生も大変ね、こんなに大勢の子供たちで、規則も多いし、仕事も多いし、何か私たちにできることはありませんか」といえないのだろう。

 制度が悪い、それは、私も同感だ。ならば、なおのこと、その制度を変えるのは、そこに積極的に参加して、「子どものために」「未来の社会のために」制度の変更を求めていく、市民自身ではないのか。その、一般の、けれども「投票権」と「言論の自由」を持っているはずの市民が、制度や体制に対してだけではなく、お互いの間で、競争し合い、反対し合っている、、、

 オランダの1960年代から70年代の若者や知識人たちが気づいたのは、そのことなのだと思う。
 自分たちがやらなくて、いったい誰がやるのか、と。
 だから、協力を求めた。だから、「インクルージョン」を求めたのだ。

 インクルージョンは「同調」や「集団主義」ではない。インクルージョンは、「自分」が自分自身の足で立っていること、自分を見極めていなくてはできない。自分があるからこそ「包みこめ」「受け入れる」ことができるのだ。自分を持たずに、朱は朱に染まればいい、というのはインクルージョンではない。

 朱もあれば、赤も、黒も、白も、青も、そして、さまざまのグラデーションがある。人がそれぞれの、自分にだけしかない色を持って生きながら、けれども、自分以外の他の色の人がそこにいて、自分と同じように生きる権利を持っていることを、体を張って認める、ということだ。

 ジャーナリストは「記者クラブ」でおこぼれ情報を記事にし、右翼の宣伝カーは、人の声をかき消してけたたましく人々を威圧し、子供たちは、入試と、「検定」教科書で、画一化されていく日本。

 本当の「やさしさ」はそんな社会には育たない。

――――――

 きのうも若い人たちが、日本から、オランダの学校を見に来た。
 そして、子どもを「人間」として扱うその姿の、日本とのあまりの違いにカルチャーショックを受けている。そして、困惑した表情で、つぶやくのは「でも、日本にだっていいところありますよね」という言葉だ。

 ふと、可笑しさがこみ上げる。オランダ人など、「でも、オランダにだっていいところありますよね」などと、口が裂けても言わないだろう、と思うからだ。

 なぜ、日本とオランダの間に線引きをしなくてはいけないのだろう。
 なぜ、日本人であればみんな持っているはずだ、というような「何か」にこだわるのだろう。その前に、なぜ、自分は「何が好き」で「何が嫌い」といえないのだろう。
 そもそも、なぜ、物事を「いい」「悪い」に分けなくてはいけないのだろう。「いい」も「悪い」も、一人ひとりの価値観次第ではないか。もし100人のうち、自分だけが何かを「いい」と思っていても、99人が「悪い」と言えば、引っ込めてしまうというのか。そんなものは、初めから、何の価値もないものだ。
 だから思う。なぜ、人から「いいわね」と言ってもらわなければ、あなたは自分が信じられないのか、と。


、、、、、、

 しかし、哀しいけれど、それが人間なのだ、と思う。それが、他の人を求め、他の人を惹きあう、「社会的」な人間の素質なのだと思う。
 
 ひとは、誰もたった一人では生きていけない。一人で考えを巡らせば、やがて、社会性が疲れ果て、病気になり、人間としての存在、他の人を人間として受け入れることすらできなくなる、それが人間だ。

 インクルージョンは、他の人を「肯定すること」から始まる。インクルージョンは、人を「褒めること」から始まる。
 「協調」は、自分と相手のどっちがいいのか、と見比べ競争している間は、絶対に実現しない。

 








2009/03/12

食を分かつという文化

 しばらく前、日本では「食育」という言葉が流行っていた。最近あまり聞かなくなったところを見ると、あのころ盛んに問題とされていた事態は、もう姿を消して解決済みなのだろうか。

 あの当時「食育」という言葉を耳にするたびに、何か不快な気がしていた。
 「食育」という語には、「食」を愉しむとか、「食」を分かつというような、「食文化」が持つ豊かさがそぎ落とされて、ただ、子どもによい食事を与えて育てること、というような、しかめっ面の「しつけ」のような無味乾燥さをどうしても感じずにおれなかった。頭に浮かぶのは、母親が、子供によいといわれる出来合いの栄養価の高い不純物の少ない食品を集めてきて、スプーンに乗せ、無理やりに、子どもの口を開かせて押し込んでいるようなイメージを持っていたのは私だけだろうか。

 食は、人が集まり、分かち合って食べる時、楽しくすすむものだ。そういう意味で、食べるという行為は、コミュニケーションであり、社会性の高い行為だと思う。食べている者同士だけではなく、作って供する側と、戴く側の間のコミュニケーションでもあろう。

 マレーシアの貧村に暮らした30年足らず前。貧困とはいえ、熱帯雨林の気候に恵まれたその村には、食べるものには事欠かなかった。ヤシの実やドリアンは落ち、村を歩けば、バナナやパイナップル、ジャックフルーツが実る林があった。毎日の食事は、共同の皿を真ん中にして、丸く周りに座り、右手でそれぞれが自分の皿にごちそうを取り分けて、手で混ぜて口に運んだ。
 社会調査をしていたので、300軒余りの村の家を、よく巡回して訪ねた。顔なじみになると、「お昼ご飯を食べていけよ」と誘ってくれる村人も多かった。白いご飯に、ココナツミルクと香辛料の入った肉汁だけをスプーンで振りかけ、手で混ぜて食べるだけの簡単な昼食でも、ふるまってくれる人の心が暖かだった。食べていくことで、村の人には、もう一つ心を開いてもらえたような気がした。
 時折帰るクアラルンプールの下宿では、食事は自分で賄わなくてはならなかったが、偶に、大家のカンダヤおばさんが、朝から石臼で挽いた香辛料を入れて作った特製のカレーを家族と一緒に食べようとふるまってくれることがあった。熱帯の昼は暑く、雑貨店を閉めて2時間の昼休みに帰ってくる大家一家とともに、汗を流しながらピリピリと辛みの利いたカレーに舌鼓を打った。
 カンダヤ夫妻の菜食主義の話、その理由などを、つれづれの会話に聞いたのはそんな時だ。

 近代化し都市化した日本の都会。家族で食べることはほとんどなく「孤食」の時代になったという。
 近代化が進んだヨーロッパも、きっとそうだろう、と思う日本人は少なくないのかもしれない。しかし、ヨーロッパ人は、家庭での食文化、食を分かつ文化を今も大切にしている。

 オランダ人の食事はフランスや日本に比べると甚だみすぼらしい。お世辞にも美味しいといえるものは多くない。肉と馬鈴薯と野菜一品、サラダがつけばいい方。朝と昼は、ハムかチーズを挟んだ黒パンとフルーツ一個にミルク、と簡単。プロテスタントの禁欲主義がそういう食文化を生んできたのかもしれない。しかし、その反面、一日に一回の、火を入れた温かい夕食は、たいていの家庭で、一家揃っていただくものだ。
 テーブルに、テーブルかけをかけ、大皿の両脇には必ずナイフとフォークを正しくおく。週末ならば、ワイングラスを置く家庭も少なくないだろう。テーブルに家族全員がつくまで、食事は始まらない。夕食時には、キャンドルを置いて音楽はかけても、テレビのスイッチは切り、新聞などを食卓には持ってこないものだ。
 親は、子どもたちのいる前で、その日の出来事を伝えあう。子どもたちは、学校での出来事を話す。
 ものを口に含んでいる時には、人の話に耳を傾け、合間をとらえて、自分が口火を切る。リズムのある会話が、食事とともに進んでいく。

 こういうテーブルを囲んだ社会的な交わりは、何もオランダだけのことではない。
 フランスでもそうだ。オランダに比べて御馳走に主婦が手塩をかけるフランスでは、満面に笑みをたたえて御馳走をキッチンから食堂へと運んでくる主婦の姿がたくましい。プロテスタントのオランダに比べ、カトリックの国は子どもの数が多い。いきおい、家族の規模は大きくなり、夏の休暇で帰ってくる子ども一家を迎える老夫婦など、娘の協力を得て、庭の長テーブルに、大盛りの皿を並べている。夏の夕方、野良仕事を終えて集まる農家の夕食は、バルコニーに据えたテーブルだ。ワイワイと楽しそうに語る声が各家々の庭でさざめき、そばを誰かが通りかかれば、顔見知りだろうがそうでなかろうが「ボナペティ」と声をかけ、「メルシー」と一同が返事をしてくる。

 日本にも昔はゆっくりと食を楽しむ時間があった。家庭では一家そろって夕食を食べていた。今のように、デパートの地下街やスーパーに溢れるほどの食材はなかったが、主婦は、毎日の食事ぐらい慣れた手つきであっという間に作っていたはずだ。

 しかし、数年前に聞いたある中学の先生の話では、「家で毎日夕食を家族で食べている人?」と聞いたら、クラスにたった一人だったのだそうだ。おまけに、手を挙げたその子に対して、他の子が「ウザイ」といったという。「ウザイ」と言っている子どもが、愉しい食卓を知らないらしいことが悲しい。それとも、負け惜しみなのだろうか、、、

 日本から若い人が来て驚いたこともある。
 一緒に昼食に行っても、みんなで注文したものが揃っていようがいまいが、さっさと一人で食べ始める。食べている時に一言も口を利かない。周りで何が起こっているか目に入っている気配さえない。ものを口に含んだまま話をする大人にも閉口する。日本だって、「食べながら話をするな」くらいのことは昔はみんな知っていたような気がするのだけど。

 みんながみんなそうであるとは思わない。少数派であるのなら、安心だ。しかし、黙々とエサを掻き込んでいるような何人かの若者の姿に、貧しさと寂しさを感じずにおれなかった。むろん「いただきます」も「おごちそうさま」もなかった。
 朝は通勤途中の喫茶店で、昼食や夕食は、仕事の合間に大急ぎで、という食事を繰り返させられているのは、実は、子どもたちのことではなく大人のことなのかもしれない。

 日本食は世界に名高い。ミシェランに3つ星をもらったレストランが最も多い都市は、フランスの都市ではなくて東京だ。日本料理の美味しさ美しさには比類がない。それは、世界中に異論がない。

 だから、せめて、食を分かつ楽しさ、食を愛でる感謝の心、そういう、日本にも確かにかつてあった大切なものを、子どもたちや若い人たちにも伝えてほしい。日本の若者たちを、それなりに丹精込めて供された食事をエサを掻きこむように食べるみすぼらしい姿で世界に送らないでほしい。

 食べるものが捨てるほどに溢れているというのに、食文化の方は、こんな風に崩れていっている。
「食育」を重視する心が、栄養とか育児のためだけではなく、大人たち自身が「楽しむ」場を取り戻し、努力して、みんなで食卓を囲む時間を作ることにつながってくれれば、と思う。
 ゆっくりとしたスローな時代、日本にも、洗練された食文化があったとまだ記憶する。何のために、こんなに忙しく働かなくてはならないのだろう。何のために、こんなに人々を働かせなくてはならないのだろう。
 忙しさは人間をみすぼらしくさせる。金がないことが人間をみすぼらしくさせるのではない。



玉石混淆って?

 人の感情の中で、嫉妬ほど醜く、嫉妬ほど無駄なエネルギーはない。
 でも、嫉妬は、それを起こしている人よりも、嫉妬を起こさせるような環境の方に、本当は問題があるのではないのだろうか。

 玉石混淆という言葉がある。あまり好きな言葉ではない。

 たぶん、人間には、一人ひとり原石のような石が、生まれた時にインプットされているのだろう。そして、生きるということは、自分の中にインプットされている石が一体どんな光を秘めているのかを見つけ出し、それを自分の力で磨き上げていくことなのだろう。

 同じ親から生まれた子どもたちを見ていても、原石の質はひとりひとり違う。

 長男は小さい時から車輪のようにくるくる回るものがあると目をそらすことができなかった。無機質のものを組み立てて何かを作り出すことに人一倍関心が強かった。他所に行って珍しいものがあると、手で触れて触ってみなければ納得できず、私は何度親として冷や汗をかかされたかわからない。多分、物事を、空間の中で立体的につかみ、質感を感じずにおかなかったのだろう。親の私がそう気づくまでに、10年以上の歳月がかかった。物心ついた時から、手押し車、三輪車、自転車と、車輪で動くものを身近に置いておかなければ気の済まないような子だった。
 他方、長女の方は、長男があれだけ擦り切れるほどに使った手押し車にも三輪車にも愛着を持たず、生きた動物が大好きだった。家の中には、必ずペットがいた。一番多い時には、庭中を17匹のウサギがぴょんぴょんはねていた。駐車中の路上の自動車の下に野良猫が隠れていると、自分も地面に横になって猫に話しかけるような子だった。今でも、野花の名前は覚えないけど、鳥の名前なら、いつの間にか覚えて、空を飛んでいる鳥を見つけるのも誰よりも早い。
 二人のその後の進路を見ていても、何か、そういう生まれた時に授かったものがどこかでつながって、今に至っているような気がする。

 うちの子供たちだけのことではない。親戚の子を見ても、自分の兄弟を見ても、人間というのは、一人ひとり持って生まれた原石は、他の誰もが持っていないたった一つのものなのだな、と思う。一人一人の顔かたちや声色が違うのと同じように。

 嫉妬の感情というのは、自分にないものを欲しがる感情だ。そして、そういう嫉妬を引き起こさせる環境とは、人が持っている原石が、一つ一つ、同じように価値のあるものであることを認めずに、玉石混淆だ、と言ってしまう環境だと思う。
 良さとか美しさとは、主観的な判断から生まれるものだ。多数の人が美しいと感じるものは、確かにあるかもしれない。しかし、美しいと感じられるものが、どういう形であるのか、それには、いくつもの無数の形と表現があると思う。良いとか美しいとかを決めるのは、一人一人の判断だ。

 たぶん、わたしたちが持って生まれた原石のようなものとは、自分自身の中にある「自分だけのもの」「ユニークなもの」「私だけのもの」なのだろう。
 「個性の重視」とか「個人主義」には、そういうユニークさの尊厳に対する尊重の念がある。同時に、自分の中にある、決して人には譲ることのできないユニークさを、自分自身で固く守ろうという意志にもつながるものかもしれない。

 子どもを育てるというのは、多分、子ども自身に自分の原石に気付かせること、そして、その原石を磨いていく方法を一緒に考えてやることなのではないか、と思う。
 何か一つのスタンダード化された標準に合わせて、そこで作られた物差しだけで競争させられる日本の学校の子供たち。そこで、「玉」といわれるのは、単なる学力という名のみすぼらしい手垢のついた物差しの上の右端に座れるものだけだ。そんな「玉」など、子どもが大人の力を借りて丁寧に磨きをかけてきたようなものではない。

 一人の人間の中に、原石は一つだけ見つかればいい。それが、やがて、天命と思えるような自分の人生の証しになる仕事に結びついていけば、、、。そして、それは、何も、いい大学に入るためなどと、高々20年くらいで見えてこなくたっていいはずだ。親も子も、教師も生徒も、みんな、自分の石はいったいどんな光を放つようになるのだろう、と磨きをかけ続けるだけでいい。
 そんな教育がほしい。そんな学校がほしい。そういう生き方を支える社会がほしい。

 みんながお互いにお互いの原石を認め合うようになれば、嫉妬などという無駄なエネルギーを注いでいる暇はなくなってしまうだろうに、と思う。

 そう思っているのに、嫉妬心を起こす自分がいる。自分自身を見失っている時のことだ。