Translate

2008/12/26

前向きの「批判」

 最近ますますカタカナ言葉が増えている。カタカナ言葉が増える原因は、外国の言葉の概念にぴったり合う日本語をどうしても見つけられないことなのだろう。言葉はそれを使っている人々の文化と密接にかかわっている。どの国の言葉にも、どうしても外国語ではうまく訳すことができない言葉というものがあるものだ。だから私は、むやみに「カタカナ言葉はだめだ」というつもりはない。ただ、安易にカタカナ言葉を増やしていくと、わかったつもりで本当は分かっていないたくさんの人々を生み、分かっていないのに、わかったふりをして対話の中でそれを使ってしまう、そして、誤解やすれ違いを生んでいるうちにいつの間にか元の言葉の意味とは違うところで、つまり、日本の文化的背景の中で、勝手な意味を持って独り歩きしてしまう危険を生んでしまう。だから、時々、わかりにくい言葉について議論してみるのは悪くない。日本語に正確に訳せる可能性があるのであれば、少し努力してみるのもいいと思う。

 私がお世話になっているある高齢の俳句の師は、もともと小学校の先生をしていて、のちに、俳句研究の大家になられた方だ。この先生が、戦後間もなく、「批判読み」というタイトルの本を出されたと聞いた。たぶん、クリティカル・リーディングの直訳であったのだろうと思う。残念なことに、この日本語で「批判」という時の、どちらかというと否定的な響きが悪く、広く売れるには至らなかった、と回顧しながら苦笑されていたのが印象的だった。

 日本語で「批判」というと、確かに非常に「否定的」な響きが付きまとう。「批判」という語だけが否定的なのか、それとも、「批判する」「批判される」ということが否定的なことと受け止められているのかは判然としない。私は、多分後者ではないか、と思っている。

 だが、クリティカルという英語、また、それに準じるオランダ語には「否定的」な意味合いはほとんど伴わない。言うまでもなく、クリティカルであること、クリティカルなコメントを受けること、そのこと自身に、否定的な感情はほとんど伴わない。むしろ、肯定的で、喜ばしい、歓迎すべきこととして使われることさえあるといってよいと思う。これは、まさに、文化の違い、精神性の違い、人々の「多様な価値観」に対する開かれた態度がどれほど発達しているか、もっとはっきり言えば、近代市民としての、自分自身に対する反対意見や異なる意見に対して開かれた態度があるかないかの違いなのだと思う。

 教育制度や教育方法について研究していると、この「クリティカル=批判」という言葉には大変しばしば遭遇する。そして、そのたびに、「さて、どう訳したものか、、、」と頭を抱えてしまう。日本人に向けて、「批判」と直訳してしまうと、はじめから警戒されたり否定的にとられて、本来の意味を誤解されてしまう可能性が予想できるからだ。ある時以来、私は、この言葉を、少しまどろっこしいくて長いが、一定の文脈の中で使う場合に限って「自分の頭で考えて」と訳すことにした。

 さて、クリティカルとは何だろう、、、

 大学院を卒業するまで日本で教育を受けた私は、本当の意味で「クリティカル」にものを考える習慣も、そうする方法も、どの教育段階でも学ばなかったという気がする。それがために、大学院で論文を書くに至っても、研究というものは、とても個人的で内省的なもの、問題意識や動機を他の人と共有することがとても難しいものだ、と思い込み、感じ続けていた。振り返ってみればまことに残念なことだと思う。

 あの時に、「私は、こういうことがわからないので、この問いに答えを出したくて、こういう方法で研究を始めてみたのですが、こんなところで行き詰まってしまいました。皆さんの<ご批判>とアドバイスをいただければと思うのですが、、、」というような研究をすることができていたならば、どんなに良かったであろう、と思う。

 クリティカルとは、自分の頭で、率直に、物事を見たままに受け入れ、それについて考えてみることであり、それに、他の人から、つまり立場やモノの考え方の異なる人からの角度を変えた感想や意見に照らして、もう一度、検証する態度であると思う。自分の目だけを絶対的とするのではなく、こうも考えられるし、こうも解釈できる、と条件を変えて、目の前の対象物の意味を、いろいろな立場から見直してみることだ。そういう態度を繰り返すことで、自分自身の理論が、たとえそれが仮説であっても、いろいろな批評に耐えられる強いものになっていく。

 大学院の学生になったばかりのころ、学会発表が怖かった。たった15分の発表が怖くて仕方がなかった。「研究は<批判>されてよくなるのですよ。だから、怖がることはない」などと言ってくれる師や先輩がいても、そう、あるがままの自分を見せることができなかったのはなぜなのだろう?

 「批判」と言えば、挙げ足を取り、相手の理論をこてんぱんにつぶすことだと考えている人は多い。でも、それでは、批判される側にも、批判する側にも何も役立つものは残らない。

 わたしの子供たちが育ったアメリカンスクールやオランダの学校を振り返ってみる。小学校の時から、自分の意見や考えをみんなに披露する機会が繰り返し繰り返し合った。遊びのような気軽な雰囲気の中で、他の子供たちが意見を言い合う。「わからない」「知らない」「いいえ」とはっきり人前で言うことに子どもたちは何の抵抗もないようだった。「恥ずかしがって」ものをいわない子どもは「おとなしくてよい子」ではなく、自分の意見を言わない、あっても言葉にできない「困った子」として先生の頭を悩ます子だった。子どもが忌憚なくモノを言える場を作るために、先生は努力して場を作りシチュエーションを考えていたように思う。

 <クリティカル>とは、自分の考えを組み立てていくのに、いったん、立場を変えてみたり、反対の意見や理論と比べてみたりする中で、自分の考えを、<相対化>して見直すことに他ならない。

 なぜそれが大事なのだろう。それは、自分だけの考えを絶対視する「独善」に陥らないで、自分の考えを、批判にさらすことで、よりよく磨いていくことができるからだ。

 そもそも画一教育をしたり検定教科書を作ったりと、一つの価値観を国民全員に押し付けようとする、少数の金持ちと権力者が牛耳っている社会というのは、意図的に「多様」な価値観を避け、意図的に「批判的態度」を抑制し、意図的に「相対主義」を排しようとするものなのだ。

 「残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国オランダ」という本を書いたら、結構いろいろなところから「なぜオランダをそんなによく見るのだ」「ちょっとオランダに陶酔しすぎているのでは」という感想がきこえてきた。私という書き手個人にとっては、書き方の批判としていい批判だと受け入れるつもりはある。自分では、それほどオランダびいきではないつもりだったが、やはり、外からはそう見えるのだな、ということがわかったからだ。

 だが同時に、そういう感想の中から「日本をそんなに悪くいわなくてもいいじゃあないか」という沈黙の不満の声も聞こえてくる。どこの国の人も、えてして、外から「批判される」ことは嫌いだ。だから、多くの人々は、外からいわれる前に少々自虐的に自己批判して、厳しい外からの批判の前にクッションを置いている。新聞の風刺(画)、テレビ番組での政治家批判やニュースを話題にしたお笑い番組などはそれだ。しかし、日本の新聞には、最近、そういう種類の風刺や、自国の政治家を笑い物にできるようなテレビ番組の類、川柳なども、以前に比べるとすっかり影をひそめてしまっている。あまり健全な状態ではないな、と思う。

 日本がよくなるために、いや、どの国にとっても、独裁的な支配者を生まないためには「クリティカル」な外からの視点が必要なのだ。
 日本人が内側から見ていただけでは見えないものを、少し良くくっきり見えるようにするために、オランダでも、何でも、外からの視点を取り入れてみることが必要なのだ、と思ってあの本を書いた。ヨーロッパの国のように、お互い切磋琢磨する競争相手が横並びになって存在する状態から、ずっと離れている日本には、ぜひ、そういう機会が必要だと思った。だが、その意図が受け入れられたかどうか、それは五分五分というところかもしれない。

 もとより、絶対に間違いのない、これだけが最善の考え、などというものは、世界中どこを探してもない。すべての理論は、次に新しい方法で新しい理論が生み出されるまでの、当座の仮説でしかない。また、理論を生み出す背景にある条件が異なれば、さまざまの異なる帰結が考えられる。

 自分の意見も、他の人の意見も、あくまでも当座の<仮説>にはすぎないけれど、それでも、いったん真剣に、前向きに受け入れることができるかどうかで、自分も他の人も、限りなくよくもなれば、停滞もする。

 社会がオープンかどうかというのは、<批判>に対して開かれている人が多いか少ないかによって決まる。


2008/12/19

原点・沖縄

 人種差別という言葉がある。OO人である、という理由で、その人の個人的な背景も性格も経験も一切考慮せずに、OO人一般についての「偏見」に基づいて、つまり、色眼鏡をかけてその人を見ることだ。
 27年間日本の外で暮らしてきたが、私が、自分自身の体験として「日本人」であるのを理由に強い偏見をもって見られたという経験は、実を言うと数えるほどもない。

 振り返ってみると、最も露骨に苦い思いをしたのは、むしろ、日本を出る前、25歳の時に行った沖縄でのことだ。

 大学の仲間と、沖縄で地域調査をしていた時のことだ。地域の情報を集めに、市役所に行って話を始めた時に、その後ろの事務机で働いていた職員の間から、どこからともなく「ヤマトンチュウ」という言葉が聞こえてきた。小声ではあったが、決してひそひそ話ではない。明らかに、そこにいる私たちにはっきり聞こえるほどの声量で、そう誰かが言ったのだった。気づいて、声のした方を向くと、何人かの職員がさっと目を伏せた。後味の悪い、いやーな気がした。

 第2次世界大戦中に、日本本土からきた日本軍の兵士たちが沖縄でしたこと、戦後長くアメリカの占領下に置かれてきた沖縄、戦前からずっと続いていた沖縄の人たちに対する日本本土の人々の蔑みの目、それらを考えれば、上のようなことが起こったのは無理もないことだ。私たち本土からの学生に対する「ヤマトンチュウ」という言葉は、むしろ、差別されてきた人々からの怒りの言葉であったにちがいないのだから。

 そういう、「痛い」言葉「痛い」まなざしに象徴される底の深い「憤懣」があるにもかかわらず、調査中に出会った沖縄の人たちの中には、やさしい人たちが多かった。どの人もどの人も、会う人ごとに、必ず、家族や親族の中に、少なくとも一人、戦争で命を失った人がいた。農地を米軍に取られてしまった人も少なくなかった。

 それなのに、たいていの人が、私たちを自宅の居間にまで入れてくれ、たくさんの話を聞かせてくれた。たまたまランダム抽出で聞き取り調査の対象になった酒屋のおかみさんは、私の方の調査が終わると、そのまま、盃に酒を酌みながら、夜更けまで自分の身の上話を聞かせてくれた。この人も、戦時中に家族を失い、戦後、職を求めて上京したが、どうしても東京の生活に慣れることができず、沖縄に帰ってきた人だった。その間には、出会いや別離のドラマもあった。

 「ヤマトンチュウ」と呼ばれ、目を伏せた人たちの感情が、だんだんに、痛いほど実感として分かっていく調査の過程だった。


 そうしているうちに、那覇島からは少し離れた久米島の出身者が集まっている集落に調査に行くことになった。話を聞いているうちに、久米島出身者は、沖縄本島にある那覇では、周りから「差別されている」ということが分かってきた。さらに話を聞いていると、実は、そういう久米島出身者ですら、それからさらに小さな離れ島から来ている人たちに対して、差別感情を持っていることが分かってきた。

 あの日、私たちに「ヤマトンチュウ」という言葉を差し向けたあの人たちも、もしかすると、その後ろに、もっと小さな島の人を差別する感情を無意識のうちに秘めていたのではないのか、、、この差別の連鎖は果てしない。

 国境の内部に、数多の島を抱えている日本という国。それは、果てしもなく、上下の連鎖を作らずにおれない社会だ。

 それは、自分が属する場や集団にかかわりなく、自分という人間存在の尊厳を誇るメンタリティとは全く次元の異なる、優越感情と劣等感とが裏と表に重なり合った精神だ。

 人と人との違いを、こういう上下関係にしてしか受け止めることができない精神風土の国に、私は生まれ育った。知らず知らずのうちに、話している相手と自分の関係を、そういう上下の関係においてしか受け入れることの出来なくなっている自分がいることを、時々自覚して、思わずゾッとすることは、いまでもある。

 「違い」というものを、横並びの、違っていても同等の価値のあるものとして受け入れる力は、日本という国の中では本当に育てていくのが難しい。
 しかし、それがなければ、異文化理解など不可能だ。国際交流など、単なる大国主義に落ち着くだけだ。


2008/12/17

ダイアローグからモノローグへ

 亡くなった父や母は、私たち子どもといろいろな話題について話をするのが好きだった。特に、末っ子の私は、姉たちが結婚して家を出てからも数年間、26歳で外国に出ていくその日まで実家にいたので、両親とは本当にいろいろな話をした。

 話題は、若いころの思い出だとか、出会った人、親族や亡くなった昔の人のこと、読んだ本、仕事のことなどなど、ごく日常的なもので、別に、政治について意見を述べるとか、議論を戦わせるというような大げさなことではなかった。気さくに、冗談を交え、笑いながら続ける会話が心地よく、すっかり夜が更け、それでも床に就くのが億劫な気がしたことがよくあった。

 かといって、そういう気さくさの中で、父母が、私が聞かれたくない秘密や悩みを根掘り葉掘り探り出そうとするようなことは決してなかった。
 親子というのは、意外に、お互いのプライバシーには触れたがらないものらしい。現に、あんなにたくさん話をしてきたつもりだったのに、父や母がなくなってしまうと、父や母の若いころの話や、辛かった時代のことなどは驚くほどに知らないままだったということに気付く。聞いておくべきことがまだたくさんあった、という気持ちと、そんなことはもうどうでもいい、という気持ちの両方がある。

 親子、家族といえども、プライバシーには立ち入らないという無言の了解があったからこそ、他のいろいろなことをずっと長く気兼ねなく話せる関係でいられたのではないかと思う。父や母にしてみれば、私の心の中にねじ入ってくるようなことをしなくても、普通の話題に対して、私がどう関心を示し、反応しているかを見ていれば、私のその時の心の風景など多分何の苦労もなく手に取るように分かっていたのではないか。

 それは、私自身、自分の子供らを20歳を過ぎる大人の入り口に立つ年齢にまで育ててみた今になってみると、とてもよくわかる。子どもだった自分自身の、不安も、迷いも、悩みも、恋も、失恋も、そのことをわざわざ話題にしていなくても、親の目には、きっと手に取るように見えすいていたことであろう。

―――――

 親が死んでしまった後、それまでのダイアローグはモノローグになった。

 何か考え事をしていると、何かの弾みでふと「父ならどう応えるだろう」「母ならどう言うだろう」と思うことがある。そうして、父ならば、母ならば、とそれぞれが言いそうなことは、冗談や笑顔の表情まで一緒に、容易に自分の心に浮かんでくる。父や母と同じ立場に立ってみると、あの時は苦しかっただろうな、というようなことが、わがことのように実感できたりもする。

 人として親が子に残す最大のものというのは、多分、そういうものなのではないのか。

 モノというより、人間としての姿勢や生き方そのもの。それは、生きているうちに、たくさんのダイアローグを積んでおくことで残されていくもののようだ。多分、それは、子どもにとってそのまま受け継がれるものでなくてもよいのだと思う。ただ、子供が、鏡に照らすように、自分の思いを反映させる相手になってやること、それが親の役割であるのだろう。子どもには嘘はつけない、子供には嘘をつきたくない、という気持ちが、親をまた活かしてくれる。子どもが親を親らしく育てるというのは本当だ。

 ダイアローグがモノローグになる時、子どもは、やっと親から完全に自立して、自分の足で立って歩き始めるのだろう。そして、このモノローグ(自立)は、ダイアローグ(ガイダンス)の長いプロセスがあってこそ生まれるものだ。

 親ができる子供への家庭教育とは、こうして、親子の絆と愛情に支えられながら、ダイアローグの相手になり、やがて、子どもが一人で巣立っていく、モノローグの始まりの日に、すべてを託してこの自立を信じて舞台から去っていくことなのだろう。本当のモノローグは、親が亡くなる日に始まる。

――――

 夫婦や恋人同士の愛情も含め、愛情のある関係には、ダイアローグとモノローグが欠かせない。
たくさんのダイアローグを重ねながら、お互いの生き方や考え方を、心を開いて学び合うことができるなら、それは、本当に恵まれた愛の関係であると思う。そうして、ダイアローグを重ねて行くうちに、相手の小さな仕草、小さな一言が、「あれはどういう意味だったのだろう」と考え続けるに足るほど、愛している者にとって重要な意味を持つものになる。

 愛する人の心を手に掬い取るように分かりたい、そう思うからこそ、私たちはたくさんのダイアローグを求め、同時に、ありすぎるほどのモノローグの孤独に耐えていく。そうしてやがて、小さな言の葉ひとつが、何百の言葉を尽くしても足りないほどの愛の結晶を結ぶようになるまで、、、、

2008/12/14

花を贈る

 贈り物が好きなのは日本人だ。
 徳川時代、参勤交代のたびに地方の産物が将軍に送られた日本では、各地に、研ぎ澄まされた郷土ならではの職人芸、特産物が発達した。これは、本当に、よその国に行ってもなかなか見られないもので、洗練された工芸品の数、味覚の真髄を追求した特産物の数々、その種類の多さと質の高さは他に比べることができないほど突出していると思う。
 それだけに、今でも日本では、人に贈り物をしようとして、モノに事欠くことがない。贈って恥ずかしくない質の高いものが本当に豊富だからだ。

 特産物というほどの洗練されたものがないヨーロッパに住んでいると、ちょっとした訪問の手土産には、結局のところ、ワインとかチョコレートとかに落ち着くことになる。

 それに加えてオランダでは生花のブーケが手頃なのが嬉しい。
 花は、もらった時の華やかさが格別だし、1,2週間たてば、どうしても枯れて後ぐさりが残らないのがいい。

 花は枯れてしまうのに、花をもらった思い出の方は鮮やかに懐かしく残る。

 息子が高校1年生の時、中学までを過ごした田舎の町から、中学時代の同級生が4,5人泊まりがけで遊びに来たことがあった。どの子も、以前、よくうちに遊びに来ていたやんちゃ坊主たちだ。放課後にうちに来ると、おなかをすかした子供たちによくホットドッグやホットケーキなどを作って食べさせてやっていた。引っ越した私たちを遠くまでわざわざ訪ねて来てくれた子供たちは、ちょっと成長して背も高くなり骨太くたくましくなって声変わりなんかしていた。

 到着の日、駅まで迎えに行って、早速お昼ごはんを用意し、ワイワイと騒がしく過ごした。夜は、息子の部屋に押し合いへしあいマットレスを引いて久しぶりに夜中までおしゃべりとゲームに興じていたようだ。

 翌日、遅くまで寝どこにいた子供たちは、眠たそうな目をして海岸に出て、何時間も凧をあげて遊んできた。そうして、昼過ぎに帰ってきたかと思うと、その中の子の一人が代表して、「これ、お母さんにお礼です」と、大きな花束を私に手渡してくれた。

 高校1年生の男の子5人と、大きな花束、という組み合わせは、全然思いもかけていなかっただけに、とても嬉しかった。 16歳にもなると、なんてダンディなことをするんだろう、と心が躍った。

 世界一の花卉栽培と輸出量を誇るオランダ。
 日本の洗練された伝統工芸と贈り物の文化もいいが、オランダの花の文化もなかなかいい。

 昨夜も、成長して大学生になった息子のガールフレンドが、先日私が日本から持って帰ったお土産のブローチのお礼に、と一叢の花束を抱えてきて、いっしょに夕食を食べていった。

2008/12/11

言葉としぐさ

 ずいぶん前のことになるが、外国人と国際結婚をしている女性たちとネットワークを作り、意見交換をしていたことがあった。その中で、外国人の夫たちが「思いやり」がないという不平が共通していたのが興味深かった。

 確かに、言葉にしない素振り、あてこすり、といったものは、日本人ではない夫にはなかなか伝わりにくい。逆に、はっきり言葉にして「あなたのこういうことがこういう理由で気に入らないから直してくれ」というと、「ああ、そういうことだったのか」とすっきりと難なく伝わったりする。

 こういう、言葉以外のしぐさをコミュニケーションの道具する、というのは、価値観が多様化して個人主義が進んだ国ほど少ないのではないか、と思う。オランダなどは、まさに、その典型だ。1950年代くらいまでは、まだ、カトリックやプロテスタントなど、それぞれが属しているマイノリティ集団も固定的であったので、言葉にならないコミュニケーションが通用していた場面も残っていたかもしれない。だがそれ以後、特に、70年代以降、それまでオランダに主流の既成概念として受け入れられていた様々のタブーが突き崩されてからは、相手に対して「わかってくれるでしょう」「わかっているはずなのに」という期待をかけた仕草はほとんどできなくなってしまったのではないか。

 日本に帰ると、そのたびに、このオランダと日本の差を感じる。

 いちいちこちらの考えを完全に言葉にしなくても、相手が「思い図って」先に気を回してくれる。
 その居心地の良さと言ったら、それこそ言葉にしてあらわしようもないほどだ。普段、自分の気持ちを常々言葉にしなければ、周りから理解されなかったり無視されたりする社会に慣れ親しんでしまっているだけに、頭に思いを浮かべただけで物事が進んでいくかのような日本の人間関係は、他に比べようもないほど心地の良いものだ。
 最近「空気を読める」という言葉が流行っているが、たぶん、このことを言っているのだろう。

 ただ、問題は、その逆の場合だ。そして、そう思うと、「空気を読め」という日本的な社会的な圧力は、国際的な異文化交流の場面では、むしろ逆効果なのではないか、と危惧する。

 日本人が外国に出て行った場合、単に、英語が堪能ではない、という理由だけではなくて、普段から、感情や意見を一つ一つ正確に言葉で他人に伝える努力をしていない、ということが裏目に出てしまうからだ。

 何を隠そう、そういう私自身も、今から25年以上も前、はじめてオランダに来たときには、それが最大の問題だった。若い娘はつべこべ言わず黙って微笑んでいればいい<日本>から、はっきりモノを言わなくては何を考えているかなど誰も顧みてもくれない<オランダ>に来たのだから、、、

 しかし、長く外国に住んでいると、こういうことも考えるようになった。
 日本ほどではないにせよ、どの国にも、言葉以外の小さなしぐさや表情による意思疎通があるものだ、ということに気付くようになった。あるいは、その国だけで使いならされた言い回しが、言葉通りの意味ではないこともある。
 たとえば、何かを英語で議論していて、アメリカ人やイギリス人が、Oh, that is interesting! といった時には、字義通りに受け止めないほうが無難だ。「興味深い」などとは、相手は微塵にも思っておらず、実は、「なんだ、月並みな話だな」としか思っていない場合が大半だからだ。
 しかし、これとて、国際的な場面で、いろいろな文化的な背景を持つ人々が集まっている場では、既成の、皆が了解している共通のサインとしては、機能しないだろう。
 どの国の人も、自分の背負っている文化的な背景を、いったん自分から取り外す努力をして、相手に耳を傾け、自分の考えを言葉にするのが、異文化交流の第一歩なのだ。

 当たり前のことだが、外国で暮らすとなると、コミュニケーションは極めて重要。誤解が重なれば、ただでも孤立感の強い外国で一層孤立してしまう。ありとあらゆる感情や意見は、可能な限り「言葉」にして表現しておいたほうが、自分の精神を健全に保つためにもよい。

 昔は「郷に入れば郷に従え」と言って済ましていられた。それくらい、わざわざ外国に出かけて行く人の数は少なかった。それぞれの国で、その場の文化的な規範を丸ごと受け入れて、それに従って行動できるのならば、それにこしたことはない。
 しかし、何カ国もの国を動いて仕事をしたり、様々の多様な文化的な背景をもつ人々が一同に集まる場所に行く場合にはいったいどうすればよいのか。やはり、自分の立場や意見は、言葉で説明していくしかない。そうしなければ、無視され、「何も考えていない」と思われても仕方がない。

 思いやり、微笑みの文化は美しい。その優しさは貴重だ。そういう仕草は、外国でも尊重されることは疑いもない。だが、そのことと、自分自身の思いを相手にきちんと伝えきれているか、ということとは別のことだ。自分の考えを尊重されたい、相手と同じ土俵に立って、ともに何かをなしたり、ともに社会に貢献したい、という気持ちがあるのなら、日本の外に出ていく時には、それをちょっと言葉にして、自分が何者あるかを説明できる能力は、育てていたほうがいい。

 言葉が通じない間は「空気を読む」のも大事だと思う、しかし、それに頼ってばかりではまずいだろう。やっぱり、様々の文化的な約束事から解放されて、異文化の人々が一堂に会し、平等に世界の未来について話し合っていく国際化の時代には、言葉を手段としたコミュニケーション能力が、とても大切だと思う。

2008/12/10

子どもが生きづらい時代

15歳の子供が警官の放った銃弾に倒れたことをきっかけに、ギリシャでは、未成年の子供たちの抗議運動がおこり、それがついに、労働組合までを巻き込んで大規模のストにまで広がっている。ニュースでは、まだ、その子供が撃たれた時の背景などが詳しく伝わってこないので予断を許さない。しかし、少なくとも、こういう抗議が一気に全国に広がり、大人達までを巻き込んで、現政府への抗議にまで広がったことの前提には、人々の間に余程の不満があったらしいことがうかがわれる。

 子供たちの犯罪について、最近、興味深い話を二つ聞いた。

 一つは、尾木直樹氏が主宰しておられる臨床教育研究所「虹」が行った「大人の子供観に関するアンケート調査」報告の中で問題提議されていたものだ。日本では、この数年、一般に、子供の少年犯罪が増えたり凶悪化している、というイメージがあるが、実はデータをくわしくみてみると、少年事件は増加も凶悪化もしておらず、むしろ沈静化している、というのだ。

 凶悪犯罪、ことに未成年がかかわった凶悪犯罪が起きると、日本の新聞やテレビは、総立ちになって繰り返し繰り返し視聴者の目や耳に同じ情報を送り込む。きっとそういうジャーナリズムのあり方が現実の姿を必要以上に誇張し、人々を不安に駆りたてているのだろう、と思っていた。

 そうしたらつい先ごろ、オランダのテレビの政治討論番組に、ユトレヒト大学の少年犯罪の専門家が出演し、オランダでも、少年犯罪の数はこの20年ほどの間減っていること、それにもかかわらず、国は、少年犯罪の予防のためにと「取り締まり」の強化ばかりを強調していると述べていた。対談の相手の、元警視庁総監の自由主義派の政治家に、「もっと子供たちの現実を見よ」と熱く訴えていた。

 日本でもオランダでも、大人たちは子供に対する信頼を揺らがせ、取り締まりに走らせているという。いったい何が、大人を不安にさせているのだろう。

 「凶悪犯罪」の数は、どちらの国でも「増えていない」という。しかし、「凶悪」さの中に、急速に変わり行く情報化社会の中で、大人たちが自分たちが子供のころには考えられなかったような犯罪が含まれてきていることに、いわれのない不安を感じているのかもしれない。 また、情報がインターネットやメールを通して、目に見えないところでいち早く不特定多数に伝播する今の時代、犯罪の連鎖を恐れているのかもしれない。

 しかし、そういう子供たちの環境を作ってきたのは大人たちだ。未成年の子供たちから、子供らしく育っていける環境を奪っているのは、大人のほうだ。

 日本と同じように、オランダでも、小学校の教員たちは、この10年ほどの間、ずっと「家庭教育が崩れてしまった、子供たちの社会性や情動性の発達を学校がしっかり担わなくてはならなくなっている」と議論し続けている。
 この10年ほどの間に起きた、日本やオランダでの急激な変化は、やはり、カネカネカネの産業グロバリゼーションのなせる業であった。カネの価値以外で、人の行動やモノの考え方、理想の生き方を堂々と示すことができにくい社会になってきた。

 モノを消費し、モノを買うための金を稼ぐために、大人たちは、男も女も一日の大半を労働のために使う。労働機会を求めて都市で生活しなければならない労働者たちには、親せきや友人と過ごす時間も少なくなってきていることだろう。都市空間には、子供が安心して遊べる場はなくなり、仕事に追われて疲労困憊している大人たちの姿に、未来への夢を描くこともできない。

 昔の子供たちは、「遠いよその国」に夢を描くこともできた。しかし今の子供たちの目には、インターネットを通じて、世界の隅々からの様子が手に取るように見える。人との対話、体温を感じる触れ合い、同じ場に生きることから生まれる共感、そういったものを何一つ経過せずに「見てしまい」「知った気分」になってしまう子供たちの意識には、冒険への夢は育ちにくいことだろう。なにより、家庭生活というほどの時間を家族と共有しない子供たちに、「対話」「触れ合い」「共感」を実感として感じられる育ちがあるのかどうか、、、

 いじめや不登校や自殺、そして、犯罪は、子供たちの悲鳴だ。五体満足に生まれてきたはずの子供たちですら、たった数年で精神を病んでしまうのだ。
 本当は声を上げて泣き叫びたい大人の感情や病状を体現しているのは、この子供たちのほうなのではないのかと思う。

 現実には、子供たちの「犯罪は増えていない」という。
 それなのに、大人は、こうして悲鳴を上げている子供たちに、もっと規則を、もっと規制をと躍起になっている。そうすることで、いったい誰が幸せになれるというのだろう。

 「産業先進国」といわれる国々が成し遂げた今の世界の、なんというみすぼらしさであろう。

 できることなら、政治家にもマスメディアにも、もっと人間としてポジティブに人間らしく生きようとしている人々の姿をこそ取り上げてほしい。数は少なくても、そういう人々の姿をこそ、繰り返し繰り返し伝え、社会の希望に結びつけてほしい。特に、未来を担っていく若者や子供たちのために。

2008/12/05

あとずさる民主主義???

 人間の社会は、普通、権威主義から民主主義へと発展していくものだと思っていた。けれども、今、日本では、民主主義が権威主義へ激しく撤退していこうとしているという。そうだとしたら、世界のなかでもそんな例はあまりにないのではないか。

 かつて日本通のオランダ人ジャーナリスト、カレル・ファン・ウォルフェレンは「日本・権力構造の謎」などの本を著わし、民主主義の発展を阻む日本社会独自の権力行使の在り方を外国人の目で鋭利に分析した。この本は、90年ごろ、”The Enigma of Japanese Power”というタイトルで、国際的にも広く知られた本だ。当時、ウォルフェレンの著作は、日本の中でも、少なくとも知識人階層の間ではかなり広く良く読まれたのではなかったか、と思う。バブルが崩れて先行き不安になった日本人にとって自らを省みるために重要な客観的な視点を与えてくれる本だったのではなかったろうか。

 最近、彼よりも何年かあとに、オランダの主要紙の特派員として10年余り日本に滞在したハンス・ファン・デル・ルヒトというジャーナリストが、日本についての本をオランダ語で著わし、そろそろ書店の店頭に出てきている。「くびきにひかれた民主主義―――スクリーンの後ろの日本」とでも訳そうか。彼は、90年代の後半からつい数年前まで、日本から様々の特集記事をこの紙面で発信していたので、日本に少しでも関心のあるオランダ人読者にはよく知られた記者だ。

 この3日、その広報の意味もあってか、ファン・デル・ルヒト自身が、NRC紙のオピニオンページの紙上で、かなり目立った記事を書いていた。
「非民主的な日本はゆっくりと後退していく」と題されたこの記事、副題には、「保守的なリーダーたちは将来へのビジョンを欠き、日本の伝統の豊かさを好んで話題にする」、そして、リード部分には「経済大国日本は、アジアの他の諸国が嵐のような成長を遂げているそばで、権威主義の過去へのノスタルジーにあとずさりしている」とある。
 ファン・デル・ルヒトは、バブル崩壊後の日本の経済について、日本の政治が無策であったこと、先進諸国の中では例外的なほどに大きな国庫負債を背負っていて尚、今回の金融危機でも将来への何の見通しもなく国庫から多額の金融支援注入を決めたこと、その一方で、失業率は急増、しかも、失業者として登録される数には疑いが多く、引きこもり・ニート・フリーターは増え続け、自殺者の数は倍増、生命保険の保険金を遺族に残してやっと家族を守る人がいると述べる。田母神問題にも触れ、日本の政治家や企業家の常軌を逸した歴史認識に慨嘆してもいる。

そして彼はこう続ける。
「(田母神の)この更迭は、実は、見せかけのものにすぎない。自由民主党の政治家たちは自分たちもまた戦争について肯定的な言葉で語りたくて仕方がないのだ。更迭などをするよりも、戦争についてのオープンな議論をすべきであった。こういう議論を行うことで、日本という国はこれからどんな国になりたいと思っているのか、それは、権威主義の国なのかそれとも民主主義の国なのか、という問いをやっと議論できたはずだ。現在政治の主導権を握っている人々は今もまだ岸信介の人形劇を演じているだけだ。岸は1930年代40年代の戦時内閣におり、一度は、アメリカ合衆国によって戦争犯罪人の容疑で刑務所に入れられた人だ。政治的日和見主義が彼を1948年に自由の身にした。」

 オランダの主要紙の紙上で、日本についてこのような報告がなされているのだ。
 日本国内の新聞には到底取り上げても貰えそうにない論説が、海外では公的に発表される。せめて、国外のメディアがどんな風に日本を伝えているかくらいは、日本人も知っていて良さそうなものだ。

 ウォルフェレンのころまでは、日本の書籍市場の中には、まだ、外国から見た日本や、外国の者への関心が大きかったと思う。しかし、最近は、日本人の海外事情への関心がとても薄くなってきているようだ。日本国内に山積した問題があまりに多く、海外のことなど考えている余裕がなくなっているのかもしれない。「お前らにオレたちの苦しみがわかってたまるか、自分たちだけいい生活をしていて偉そうなことを言ってくれるな」とでも思っているのかもしれない。

 しかし、それだけではないように思う。
 特にテレビや新聞といった、一般市民への影響力が極めて大きなマス・メディアのジャーナリズムが、日本社会についての自己批判を書きたがらなくなっているのではないか。もともと、政権を獲得している与党の議論以外は避け、批判的な意見には発言の場を与えてこなかったのが日本のテレビや大手の新聞だ。その中で、唯一、率直で忌憚のない意見が聞こえたのは、日本国内に政治的立場を持たないだけに偏見の少ない外国(人)からの視点だった。しかし、それさえも、最近はあまり大きな影響力を持たないような気がする。少なくとも、様々の世界の出来事について諸外国のジャーナリストたちの論説がほとんど同時で伝わるオランダとは大きな違いだ。

 日本は、戦後アメリカ占領の下で「民主主義」制度を取り入れた。アメリカ主導の上からの「民主主義」を、ファン・デル・ルヒトは、日本人の政治的な確信によって生まれたものではなく、単なる「日和見主義」からのものだった、という。現に、朝鮮戦争勃発以後、米ソの冷戦体制が固まっていく中、日本の社会主義的な運動はことごとく抑圧され、日本の政治は、アメリカ合衆国の傘の中に完全に置かれることになる。その時代、戦争を放棄した日本人が、過去に目をつぶって、ひたすら「経済発展」のために身を粉にして働いていた、ということを思えば、その非は、日本人自身のものではなかったと言い訳することもできなくはない。

 だが、それが、どれだけ日本人と日本という社会の未来を担う子供たちを不幸に陥れるものであったことか。ヨーロッパの国々では、この同じ時代に、高度の社会福祉制度が確立し、人間一人ひとりの価値を認める社会意識が力強く発達していったのだ。そして、その差は、バブルがはじけた時に、日本人の目にも一目瞭然であったはずではないか。

 けれども、そのすべてが誰の目にも明らかになった今、日本人はまたしても、世界に目をつぶろうとしている。まるで耳を両手で塞いで「イヤイヤ」と首を横に振っている子どものようだ。そして、今回の日本人の選択は、60年代のそれのようにアメリカのせいにするわけにはいかない、日本人自身の選択だ。

 かつて黒船が来て日本が開国を迫られた時に、指導者たちは、日本が世界から技術的に後れをとっていることを垣間見ていたにもかかわらず「イヤイヤ」をした。唯一長崎の出島に窓を開いて見ていたオランダから、日本の遅れは見えていた。

 今回の日本の閉塞はあの時代の鎖国主義と同じだ。誰が風穴をあけるのか。 

 しかし、ここには大きな大きな問題がある。
 こんなに議論することも政治に参加することも知らないままの日本人であるというのに、自分たちで勝手に「民主主義を見てしまった」と思い込んでいることだ。日本のテレビやジャーナリズムは、反対意見を持つ知識人を公共の場から押し出しているというのに、それでもまっとうに、民主主義国のメディアを背負っているつもりでいることだ。多くの学者たちが、日本語の論文を書くだけで、英語での学術論争をしないままにお茶を濁してしまっていることだ。批判のない政策や科学は退化するだけであるというのに。

 日本では、民主主義が後退しているのではない。日本には、いまだかつて、一度も「民主主義」など存在したことがない。そして、非民主的なままの日本は、せっかく到達した「先進国」という肩書も、ひょっとしたら、いつか返上してしまわなくてはならなくなるかもしれない。
 

2008/12/01

反骨の血

 わたしの母の父方の家系は、かつて九州一の家具の町といわれた大川で、製材所がつかう機械を導入したり、電気機器を取り扱うなど、技術畑の仕事をしていたらしい。いわゆる「家柄」というほどの由緒のある家ではなかったが、先取の気性はあったようだ。

 父のほうの家系は、代々続く神主の家柄、数代前には国学者もいた。しかし、そういう父方の親戚の人々のことを、私は子供心にも、なんとなく線質が細いと感じ、母方の親戚の方が、家柄などにこだわらない、男っぽい気性の人たちだと思っていた。


 戦時中の、自由な空気が閉ざされた堅苦しい世の中で働き盛りの年齢を過ごした母方の祖父は、そういう嫌な時代に、自分なりに反骨の気分を心に滾らせていた人であったらしい。


 当時十代の半ばだった母。学びたかった英語は授業から締め出され、県大会で優勝までいったバスケット部での活躍も、全国大会の廃止で夢が閉ざされる。女学校の授業は徐々に学徒動員で飛行場での飛行機作りに代えられた。食糧は次第しだいになくなり、家にある金属類は拠出させられ、空襲警報が度重なるようになり、母たちの青春は、鬱々とした時代の中に奪われていった。


 若かった母の神経はそういう緊張の中で研ぎ澄まされていったのだろう。空襲警報が鳴る前に敵機の到来を感知して、家族を気味悪がらせたという。夜間には、家の室内の灯りが外に漏れて空襲の的にならないようにと、近所の役回りが始終見張りに来ては注意をして回っていた。

 母は、そういう時代、祖父の勧めで仕舞の稽古に通っていた。夜間、外に灯りが漏れないように真っ暗に目張りをした家の座敷で、祖父は母に「さあ仕舞でも舞え」と促したという。近所近辺の人たちは、そういう祖父をどんなふうに見ていたのだろう。「こんな時に贅沢な風流」と後ろ指を指していたのだろうか、それとも、ぎすぎすと息苦しい時代に、風流を忘れない祖父を陰ながら「いい奴だ」と思ってくれる人もあっただろうか。平和な時代に生まれ育った私には、祖父の反骨をただ誇りに思うばかりだ。何をするにも、他人がどう思うかを気にしてしまう気の小さい私などには、こんなに緊張の続いていた時代に、祖父のような言動は到底できなかったことだろう、と思う。



 そういう祖父の一人息子で母の兄、つまり私の伯父は、この父親の男気のある凡庸とした大きさがために、かえって反りを合わせることができず、ずいぶんと苦しんだらしい。反骨精神の旺盛な父親のもとで、自分もまた同じ反骨の血をひいていた息子には、若者らしい<反抗>以外に自分らしく生きる術はなかったのではないか。


 この伯父のことを私は長く識らなかった。嫡子であったにもかかわらず、若いころに家を飛び出し、長く行方不明だったからだ。飛び出したが最後、家には一切寄りつかず、母が嫁いだ時も、祖父が亡くなった時にも姿を現さなかった。やっと故郷に帰ってきたのは、私が中学生の時だった。家を出てから、たぶん20年くらいの歳月を経ていたのではなかったか、と思う。



 伯父は、祖父が亡くなって未亡人になった祖母が、とうとう自分で身の回りのことが出来なくなり母の嫁ぎ先に来て一緒に住むようになっていた頃、ある日突然、空き家になっていた実家に帰ってきた。そして人づてに母の居場所を訪ねてきた伯父を、母はそれでも嬉しそうに迎えた。だが私は、この伯父について、長いこと、「身勝手な親不孝者」という先入観を持ってしか受け入れられなかった。祖母や母と共に伯父の家を訪問しても、「この人は親を捨てて出ていったようないい加減な人なのだから」という気持ちが先に立ち、伯父の言動をまともにを受け止めようとは一度も思わなかった。
 
 そんな伯父は、晩年、いくつもの慢性病を患っていたというのに、結局、母よりも長生きすることになった。  8年前に元気だった母が急逝してしまったあとに、母方の血のつながった親戚としてのこされたのはこの伯父ひとりだ。母の思い出を手繰るように、私はその後、帰国するたびに、伯父夫婦を訪ねるようになった。ずっと疑心暗鬼の気持ちを抱いて真面目に会話などしたことのない姪だ。伯父の方も、私には、粗っぽい言葉遣いしかしなかった。それでも、訪ねていけば、叔母と共にいつも大事にはしてくれた。
 
 そういう風にして伯父の元を訪ねていたある日、伯父にふと、昔母から聞いていたことを尋ねてみたくなった。母は、伯父が、昔、戦時中に徴兵で兵隊にとられていた時、ある事件を起こして、それが原因で、祖父が村の権力者たちに大盤振る舞いをして伯父に汚名が残るのを避けたことがあった、と言っていたからだ。

 しかし、その「事件」とは一体何だったのだろう。今まであまり気にかけてはいなかったが、その時、はずみで、ふと聞いてみたくなった。

 小春日和の庭を眺めながら、炬燵に足を突っ込んだまま横になっていた伯父は、そういう私の問いに驚く様子もなく、徴兵先で、自分ともう一人の同僚に夜の見張りを命じた上等兵が、自分の持ち場で居眠りをしていたのが気に食わず、カッとして殴りつけたんだ、という話をしてくれた。血気盛んな年だったのだなと思う。今、そのことを思い出話として語る伯父の言葉にも、その上等兵の体たらくを思い出してか、幽かな苛立ちが浮かんでいる。

 なぜこんなに気持ちの良い話を今まで一度も聞かずに来たのだろう、と私はその時思った。伯父を誤解してきた自分がさびしく、長い間の誤解が、その時ポロリと力なく落ちたことが、変に滑稽でもあった。別に、大げさに、伯父に言葉を返したわけではない。記憶の底の思い出を語って、少し自虐的に笑っていた伯父と一緒に私も笑って返しただけだったように思う。
 今年の夏、その伯父も、とうとうなくなった。亡くなる前に、あの話を聞いていてよかった。今、帰国して手を合わせる仏前の伯父には、血の通った伯父への懐かしさはあっても、親不孝者とという責めの心持ちはない。

 ともあれ、兵隊だった伯父が起こしたこの一件は、天皇崇拝、上意下達の極限をいっていた戦時中のことだ。そのたった一夜の事件は、もしかすると伯父のそれからの一生を台無しにするかもしれない大事件だった。だから、祖父は、村の権力者を集めて息子の汚名を果たすために、大枚をはたいて飲めや唄えの宴会をしたのだった。

 何という時代であろう。
 戦時中のことだ。そこそこに潤沢な家計だったとはいえ、先行き不安のその時代、蓄えは、どんなにあっても十分とは思えない時代だったろう。それでも祖父にとって息子の将来はカネなどには代えられないという思いがあったのにちがいない。
 しかし一方、親の資力で人生を救われた息子にとって、そんな父親の元にいられなくなったのは当然といえば当然のことだ。ほんとうに、何という時代であろう、、、、

―――――

 オランダ人の夫との結婚が決まって間もなく、わたしは、オランダ人たちの間に、400年余りに及ぶ友好的な日蘭通商という歴史に所以する温かい日本へのまなざしのほかに、他方で、相当に厳しい反日感情があるということを知った。
 第2次世界大戦中に、蘭領インドと呼ばれた今のインドネシアの地域で日本軍の捕虜となった経験を持つオランダ人たちが多数いるからだ。乳飲み子の年齢で、強制労働に取られる父親と引き離され、劣悪な生活環境の収容所に捕虜となって押し込められた人たち、9歳ほどの年齢で母親から引き離され、男だけの捕虜収容所で、病人の世話や死人の始末をさせられた子供たち、異常な生活環境で発狂する母親に精神の安定を奪われた子どもたち、捕虜体験の果てに終戦後両親や兄弟姉妹を失って着のみ着のままで赤十字社が配給した襤褸衣装を着て寒い北国のオランダに帰還した人は少なくない。慰安婦とならされ性の奪われた少なくない数のオランダ人女性らの恨みは今も続いている。捕虜収容所時代の記憶から解放されず、今もトラウマが続いている人たちは、日本人が周囲にいると知るだけで、不安でいてもたってもいられなくなるという。

 こうした、日本軍の捕虜となった経験を持つ人、その子どもたちがどれだけいるのか、日本人はほとんど知らない。だが、前政権の外務大臣は自身が捕虜体験者、現政権の厚生省国務次官は捕虜体験をトラウマとして持っていた父のもとで育った人だ。いま日本に駐在しているオランダ大使のお父さんも捕虜体験だということを最近知った。有名な作家の中には、日本軍への怨念ともいえる思いを今も題材に本を書き続け講演している人もいる。それほど、オランダには、日本軍の捕虜体験者やその家族がたくさんいる。そして、そういいながらも、その人たちのみながみな、今の日本に恨みや怒りを抱いているとも限らない。戦争というものの異常さを理解し、日本人に対する不信や反感、トラウマを乗り越えた人たちもいる。

 そういう捕虜体験者との対話の会にわたしも加わっている。トラウマを乗り越え、日本の今の世代の人々との対話を求めているオランダ人と、年に1回集い、お互いに意見交換をしている。
 
 日本軍の犠牲になった外国の人たちに「詫びる」現代の日本人は少なくない。「和解」「赦し」という言葉がそういう会合では飛び交う。キリスト者の中には、宗教を媒介に、犠牲者と共に「和解」の祈りをする人も多い。若い学生など、自分の国の歴史の汚点を初めて知らされ涙を流す以外にすべを知らない子もいる。それらがすべて間違っているとは、私も、もちろん思わない。しかし、私には、「詫びる」「和解を求める」「赦しを請う」「共に祈る」という行為が、素直に、自分の率直な意思としてできない。
 
 わたしには、軍の上官の指令を受けて、オランダ人捕虜を強制労働に駆り立て、人間の仕業とは思えない拷問をしたり、女たちを強姦していた日本人兵士の方が、苦しみの底にあったオランダ人に比べて、どう見ても、より一層みじめな存在に思われて仕方がないのだ。彼らは、人間としての理性と感情を誰からも認められていなかったのではないのか。
 捕虜としての苦渋の日々にも、強制労働に取られていた夫と愛情に満ちた文通を続けていたオランダの女性たち、収容所でなけなしのガラクタを上手に集めて、絵を描き、楽譜を作り、日本人兵士の風刺画を描き続け、すごろくなどのゲームを作って遊んでいた捕虜たち。死の床にあって「日本人を憎んではいけない、これは神の仕業なのだから」と言い残して神への祈りの中で死んでいったという母親たち。日本人の行動を理解しようと日本文化についての本をむさぼり読んでいたという人たち。彼ら彼女たちの方が、人間の尊厳ということをどれだけ信じて豊かに生きていたか、と思うと、上官の命令だけで自分の意志など持つことも許されなかった日本人兵士の方が、みじめで惨めで情けない。今になって「詫び」「和解」など偉そうに言えるほど、日本人は、尊厳をもって生きることを許されていたのだろうか、今の日本人は、そんな偉そうなことが言えるほど人間としての尊厳のある生き方をしているのか、と思ってしまう。

 あの時代の日本の精神、あの時代の日本の教育は、しかし、戦後も何一つ変わっていない。
 変わらないままの日本、そこに生まれ育った私は、戦争中の出来事、沖縄のことを学校では何一つ学ばずに過ごした。そういう自分に、一体、どんな気持ちで、このオランダ人たちに「詫び」たり「和解」せよというのだろう。

====

 祖父や伯父の反骨の血が私の中にも少しは流れているのではないか、そうであったらよいな、と時々思う。
 
 反骨は理性だ。

 しかし、戦後60年以上たち、物質的には何不自由ない社会となった日本でさえ、祖父や叔父のような反骨は、きっと出る杭を抜き取るように排除されるのではないか。
 人間としての普通の感情、人間としてごく自然に行きつくはずの善悪についての理性を心に抱いていても、なお、そういう社会の中で「協調して」生きなければならない人たちの不幸は、捕虜の苦しみと変わらぬほどに、あるいは、それ以上に深刻に、人間の生にとって重篤な不幸だ。