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2008/12/26

前向きの「批判」

 最近ますますカタカナ言葉が増えている。カタカナ言葉が増える原因は、外国の言葉の概念にぴったり合う日本語をどうしても見つけられないことなのだろう。言葉はそれを使っている人々の文化と密接にかかわっている。どの国の言葉にも、どうしても外国語ではうまく訳すことができない言葉というものがあるものだ。だから私は、むやみに「カタカナ言葉はだめだ」というつもりはない。ただ、安易にカタカナ言葉を増やしていくと、わかったつもりで本当は分かっていないたくさんの人々を生み、分かっていないのに、わかったふりをして対話の中でそれを使ってしまう、そして、誤解やすれ違いを生んでいるうちにいつの間にか元の言葉の意味とは違うところで、つまり、日本の文化的背景の中で、勝手な意味を持って独り歩きしてしまう危険を生んでしまう。だから、時々、わかりにくい言葉について議論してみるのは悪くない。日本語に正確に訳せる可能性があるのであれば、少し努力してみるのもいいと思う。

 私がお世話になっているある高齢の俳句の師は、もともと小学校の先生をしていて、のちに、俳句研究の大家になられた方だ。この先生が、戦後間もなく、「批判読み」というタイトルの本を出されたと聞いた。たぶん、クリティカル・リーディングの直訳であったのだろうと思う。残念なことに、この日本語で「批判」という時の、どちらかというと否定的な響きが悪く、広く売れるには至らなかった、と回顧しながら苦笑されていたのが印象的だった。

 日本語で「批判」というと、確かに非常に「否定的」な響きが付きまとう。「批判」という語だけが否定的なのか、それとも、「批判する」「批判される」ということが否定的なことと受け止められているのかは判然としない。私は、多分後者ではないか、と思っている。

 だが、クリティカルという英語、また、それに準じるオランダ語には「否定的」な意味合いはほとんど伴わない。言うまでもなく、クリティカルであること、クリティカルなコメントを受けること、そのこと自身に、否定的な感情はほとんど伴わない。むしろ、肯定的で、喜ばしい、歓迎すべきこととして使われることさえあるといってよいと思う。これは、まさに、文化の違い、精神性の違い、人々の「多様な価値観」に対する開かれた態度がどれほど発達しているか、もっとはっきり言えば、近代市民としての、自分自身に対する反対意見や異なる意見に対して開かれた態度があるかないかの違いなのだと思う。

 教育制度や教育方法について研究していると、この「クリティカル=批判」という言葉には大変しばしば遭遇する。そして、そのたびに、「さて、どう訳したものか、、、」と頭を抱えてしまう。日本人に向けて、「批判」と直訳してしまうと、はじめから警戒されたり否定的にとられて、本来の意味を誤解されてしまう可能性が予想できるからだ。ある時以来、私は、この言葉を、少しまどろっこしいくて長いが、一定の文脈の中で使う場合に限って「自分の頭で考えて」と訳すことにした。

 さて、クリティカルとは何だろう、、、

 大学院を卒業するまで日本で教育を受けた私は、本当の意味で「クリティカル」にものを考える習慣も、そうする方法も、どの教育段階でも学ばなかったという気がする。それがために、大学院で論文を書くに至っても、研究というものは、とても個人的で内省的なもの、問題意識や動機を他の人と共有することがとても難しいものだ、と思い込み、感じ続けていた。振り返ってみればまことに残念なことだと思う。

 あの時に、「私は、こういうことがわからないので、この問いに答えを出したくて、こういう方法で研究を始めてみたのですが、こんなところで行き詰まってしまいました。皆さんの<ご批判>とアドバイスをいただければと思うのですが、、、」というような研究をすることができていたならば、どんなに良かったであろう、と思う。

 クリティカルとは、自分の頭で、率直に、物事を見たままに受け入れ、それについて考えてみることであり、それに、他の人から、つまり立場やモノの考え方の異なる人からの角度を変えた感想や意見に照らして、もう一度、検証する態度であると思う。自分の目だけを絶対的とするのではなく、こうも考えられるし、こうも解釈できる、と条件を変えて、目の前の対象物の意味を、いろいろな立場から見直してみることだ。そういう態度を繰り返すことで、自分自身の理論が、たとえそれが仮説であっても、いろいろな批評に耐えられる強いものになっていく。

 大学院の学生になったばかりのころ、学会発表が怖かった。たった15分の発表が怖くて仕方がなかった。「研究は<批判>されてよくなるのですよ。だから、怖がることはない」などと言ってくれる師や先輩がいても、そう、あるがままの自分を見せることができなかったのはなぜなのだろう?

 「批判」と言えば、挙げ足を取り、相手の理論をこてんぱんにつぶすことだと考えている人は多い。でも、それでは、批判される側にも、批判する側にも何も役立つものは残らない。

 わたしの子供たちが育ったアメリカンスクールやオランダの学校を振り返ってみる。小学校の時から、自分の意見や考えをみんなに披露する機会が繰り返し繰り返し合った。遊びのような気軽な雰囲気の中で、他の子供たちが意見を言い合う。「わからない」「知らない」「いいえ」とはっきり人前で言うことに子どもたちは何の抵抗もないようだった。「恥ずかしがって」ものをいわない子どもは「おとなしくてよい子」ではなく、自分の意見を言わない、あっても言葉にできない「困った子」として先生の頭を悩ます子だった。子どもが忌憚なくモノを言える場を作るために、先生は努力して場を作りシチュエーションを考えていたように思う。

 <クリティカル>とは、自分の考えを組み立てていくのに、いったん、立場を変えてみたり、反対の意見や理論と比べてみたりする中で、自分の考えを、<相対化>して見直すことに他ならない。

 なぜそれが大事なのだろう。それは、自分だけの考えを絶対視する「独善」に陥らないで、自分の考えを、批判にさらすことで、よりよく磨いていくことができるからだ。

 そもそも画一教育をしたり検定教科書を作ったりと、一つの価値観を国民全員に押し付けようとする、少数の金持ちと権力者が牛耳っている社会というのは、意図的に「多様」な価値観を避け、意図的に「批判的態度」を抑制し、意図的に「相対主義」を排しようとするものなのだ。

 「残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国オランダ」という本を書いたら、結構いろいろなところから「なぜオランダをそんなによく見るのだ」「ちょっとオランダに陶酔しすぎているのでは」という感想がきこえてきた。私という書き手個人にとっては、書き方の批判としていい批判だと受け入れるつもりはある。自分では、それほどオランダびいきではないつもりだったが、やはり、外からはそう見えるのだな、ということがわかったからだ。

 だが同時に、そういう感想の中から「日本をそんなに悪くいわなくてもいいじゃあないか」という沈黙の不満の声も聞こえてくる。どこの国の人も、えてして、外から「批判される」ことは嫌いだ。だから、多くの人々は、外からいわれる前に少々自虐的に自己批判して、厳しい外からの批判の前にクッションを置いている。新聞の風刺(画)、テレビ番組での政治家批判やニュースを話題にしたお笑い番組などはそれだ。しかし、日本の新聞には、最近、そういう種類の風刺や、自国の政治家を笑い物にできるようなテレビ番組の類、川柳なども、以前に比べるとすっかり影をひそめてしまっている。あまり健全な状態ではないな、と思う。

 日本がよくなるために、いや、どの国にとっても、独裁的な支配者を生まないためには「クリティカル」な外からの視点が必要なのだ。
 日本人が内側から見ていただけでは見えないものを、少し良くくっきり見えるようにするために、オランダでも、何でも、外からの視点を取り入れてみることが必要なのだ、と思ってあの本を書いた。ヨーロッパの国のように、お互い切磋琢磨する競争相手が横並びになって存在する状態から、ずっと離れている日本には、ぜひ、そういう機会が必要だと思った。だが、その意図が受け入れられたかどうか、それは五分五分というところかもしれない。

 もとより、絶対に間違いのない、これだけが最善の考え、などというものは、世界中どこを探してもない。すべての理論は、次に新しい方法で新しい理論が生み出されるまでの、当座の仮説でしかない。また、理論を生み出す背景にある条件が異なれば、さまざまの異なる帰結が考えられる。

 自分の意見も、他の人の意見も、あくまでも当座の<仮説>にはすぎないけれど、それでも、いったん真剣に、前向きに受け入れることができるかどうかで、自分も他の人も、限りなくよくもなれば、停滞もする。

 社会がオープンかどうかというのは、<批判>に対して開かれている人が多いか少ないかによって決まる。


2008/12/19

原点・沖縄

 人種差別という言葉がある。OO人である、という理由で、その人の個人的な背景も性格も経験も一切考慮せずに、OO人一般についての「偏見」に基づいて、つまり、色眼鏡をかけてその人を見ることだ。
 27年間日本の外で暮らしてきたが、私が、自分自身の体験として「日本人」であるのを理由に強い偏見をもって見られたという経験は、実を言うと数えるほどもない。

 振り返ってみると、最も露骨に苦い思いをしたのは、むしろ、日本を出る前、25歳の時に行った沖縄でのことだ。

 大学の仲間と、沖縄で地域調査をしていた時のことだ。地域の情報を集めに、市役所に行って話を始めた時に、その後ろの事務机で働いていた職員の間から、どこからともなく「ヤマトンチュウ」という言葉が聞こえてきた。小声ではあったが、決してひそひそ話ではない。明らかに、そこにいる私たちにはっきり聞こえるほどの声量で、そう誰かが言ったのだった。気づいて、声のした方を向くと、何人かの職員がさっと目を伏せた。後味の悪い、いやーな気がした。

 第2次世界大戦中に、日本本土からきた日本軍の兵士たちが沖縄でしたこと、戦後長くアメリカの占領下に置かれてきた沖縄、戦前からずっと続いていた沖縄の人たちに対する日本本土の人々の蔑みの目、それらを考えれば、上のようなことが起こったのは無理もないことだ。私たち本土からの学生に対する「ヤマトンチュウ」という言葉は、むしろ、差別されてきた人々からの怒りの言葉であったにちがいないのだから。

 そういう、「痛い」言葉「痛い」まなざしに象徴される底の深い「憤懣」があるにもかかわらず、調査中に出会った沖縄の人たちの中には、やさしい人たちが多かった。どの人もどの人も、会う人ごとに、必ず、家族や親族の中に、少なくとも一人、戦争で命を失った人がいた。農地を米軍に取られてしまった人も少なくなかった。

 それなのに、たいていの人が、私たちを自宅の居間にまで入れてくれ、たくさんの話を聞かせてくれた。たまたまランダム抽出で聞き取り調査の対象になった酒屋のおかみさんは、私の方の調査が終わると、そのまま、盃に酒を酌みながら、夜更けまで自分の身の上話を聞かせてくれた。この人も、戦時中に家族を失い、戦後、職を求めて上京したが、どうしても東京の生活に慣れることができず、沖縄に帰ってきた人だった。その間には、出会いや別離のドラマもあった。

 「ヤマトンチュウ」と呼ばれ、目を伏せた人たちの感情が、だんだんに、痛いほど実感として分かっていく調査の過程だった。


 そうしているうちに、那覇島からは少し離れた久米島の出身者が集まっている集落に調査に行くことになった。話を聞いているうちに、久米島出身者は、沖縄本島にある那覇では、周りから「差別されている」ということが分かってきた。さらに話を聞いていると、実は、そういう久米島出身者ですら、それからさらに小さな離れ島から来ている人たちに対して、差別感情を持っていることが分かってきた。

 あの日、私たちに「ヤマトンチュウ」という言葉を差し向けたあの人たちも、もしかすると、その後ろに、もっと小さな島の人を差別する感情を無意識のうちに秘めていたのではないのか、、、この差別の連鎖は果てしない。

 国境の内部に、数多の島を抱えている日本という国。それは、果てしもなく、上下の連鎖を作らずにおれない社会だ。

 それは、自分が属する場や集団にかかわりなく、自分という人間存在の尊厳を誇るメンタリティとは全く次元の異なる、優越感情と劣等感とが裏と表に重なり合った精神だ。

 人と人との違いを、こういう上下関係にしてしか受け止めることができない精神風土の国に、私は生まれ育った。知らず知らずのうちに、話している相手と自分の関係を、そういう上下の関係においてしか受け入れることの出来なくなっている自分がいることを、時々自覚して、思わずゾッとすることは、いまでもある。

 「違い」というものを、横並びの、違っていても同等の価値のあるものとして受け入れる力は、日本という国の中では本当に育てていくのが難しい。
 しかし、それがなければ、異文化理解など不可能だ。国際交流など、単なる大国主義に落ち着くだけだ。


2008/12/17

ダイアローグからモノローグへ

 亡くなった父や母は、私たち子どもといろいろな話題について話をするのが好きだった。特に、末っ子の私は、姉たちが結婚して家を出てからも数年間、26歳で外国に出ていくその日まで実家にいたので、両親とは本当にいろいろな話をした。

 話題は、若いころの思い出だとか、出会った人、親族や亡くなった昔の人のこと、読んだ本、仕事のことなどなど、ごく日常的なもので、別に、政治について意見を述べるとか、議論を戦わせるというような大げさなことではなかった。気さくに、冗談を交え、笑いながら続ける会話が心地よく、すっかり夜が更け、それでも床に就くのが億劫な気がしたことがよくあった。

 かといって、そういう気さくさの中で、父母が、私が聞かれたくない秘密や悩みを根掘り葉掘り探り出そうとするようなことは決してなかった。
 親子というのは、意外に、お互いのプライバシーには触れたがらないものらしい。現に、あんなにたくさん話をしてきたつもりだったのに、父や母がなくなってしまうと、父や母の若いころの話や、辛かった時代のことなどは驚くほどに知らないままだったということに気付く。聞いておくべきことがまだたくさんあった、という気持ちと、そんなことはもうどうでもいい、という気持ちの両方がある。

 親子、家族といえども、プライバシーには立ち入らないという無言の了解があったからこそ、他のいろいろなことをずっと長く気兼ねなく話せる関係でいられたのではないかと思う。父や母にしてみれば、私の心の中にねじ入ってくるようなことをしなくても、普通の話題に対して、私がどう関心を示し、反応しているかを見ていれば、私のその時の心の風景など多分何の苦労もなく手に取るように分かっていたのではないか。

 それは、私自身、自分の子供らを20歳を過ぎる大人の入り口に立つ年齢にまで育ててみた今になってみると、とてもよくわかる。子どもだった自分自身の、不安も、迷いも、悩みも、恋も、失恋も、そのことをわざわざ話題にしていなくても、親の目には、きっと手に取るように見えすいていたことであろう。

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 親が死んでしまった後、それまでのダイアローグはモノローグになった。

 何か考え事をしていると、何かの弾みでふと「父ならどう応えるだろう」「母ならどう言うだろう」と思うことがある。そうして、父ならば、母ならば、とそれぞれが言いそうなことは、冗談や笑顔の表情まで一緒に、容易に自分の心に浮かんでくる。父や母と同じ立場に立ってみると、あの時は苦しかっただろうな、というようなことが、わがことのように実感できたりもする。

 人として親が子に残す最大のものというのは、多分、そういうものなのではないのか。

 モノというより、人間としての姿勢や生き方そのもの。それは、生きているうちに、たくさんのダイアローグを積んでおくことで残されていくもののようだ。多分、それは、子どもにとってそのまま受け継がれるものでなくてもよいのだと思う。ただ、子供が、鏡に照らすように、自分の思いを反映させる相手になってやること、それが親の役割であるのだろう。子どもには嘘はつけない、子供には嘘をつきたくない、という気持ちが、親をまた活かしてくれる。子どもが親を親らしく育てるというのは本当だ。

 ダイアローグがモノローグになる時、子どもは、やっと親から完全に自立して、自分の足で立って歩き始めるのだろう。そして、このモノローグ(自立)は、ダイアローグ(ガイダンス)の長いプロセスがあってこそ生まれるものだ。

 親ができる子供への家庭教育とは、こうして、親子の絆と愛情に支えられながら、ダイアローグの相手になり、やがて、子どもが一人で巣立っていく、モノローグの始まりの日に、すべてを託してこの自立を信じて舞台から去っていくことなのだろう。本当のモノローグは、親が亡くなる日に始まる。

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 夫婦や恋人同士の愛情も含め、愛情のある関係には、ダイアローグとモノローグが欠かせない。
たくさんのダイアローグを重ねながら、お互いの生き方や考え方を、心を開いて学び合うことができるなら、それは、本当に恵まれた愛の関係であると思う。そうして、ダイアローグを重ねて行くうちに、相手の小さな仕草、小さな一言が、「あれはどういう意味だったのだろう」と考え続けるに足るほど、愛している者にとって重要な意味を持つものになる。

 愛する人の心を手に掬い取るように分かりたい、そう思うからこそ、私たちはたくさんのダイアローグを求め、同時に、ありすぎるほどのモノローグの孤独に耐えていく。そうしてやがて、小さな言の葉ひとつが、何百の言葉を尽くしても足りないほどの愛の結晶を結ぶようになるまで、、、、

2008/12/14

花を贈る

 贈り物が好きなのは日本人だ。
 徳川時代、参勤交代のたびに地方の産物が将軍に送られた日本では、各地に、研ぎ澄まされた郷土ならではの職人芸、特産物が発達した。これは、本当に、よその国に行ってもなかなか見られないもので、洗練された工芸品の数、味覚の真髄を追求した特産物の数々、その種類の多さと質の高さは他に比べることができないほど突出していると思う。
 それだけに、今でも日本では、人に贈り物をしようとして、モノに事欠くことがない。贈って恥ずかしくない質の高いものが本当に豊富だからだ。

 特産物というほどの洗練されたものがないヨーロッパに住んでいると、ちょっとした訪問の手土産には、結局のところ、ワインとかチョコレートとかに落ち着くことになる。

 それに加えてオランダでは生花のブーケが手頃なのが嬉しい。
 花は、もらった時の華やかさが格別だし、1,2週間たてば、どうしても枯れて後ぐさりが残らないのがいい。

 花は枯れてしまうのに、花をもらった思い出の方は鮮やかに懐かしく残る。

 息子が高校1年生の時、中学までを過ごした田舎の町から、中学時代の同級生が4,5人泊まりがけで遊びに来たことがあった。どの子も、以前、よくうちに遊びに来ていたやんちゃ坊主たちだ。放課後にうちに来ると、おなかをすかした子供たちによくホットドッグやホットケーキなどを作って食べさせてやっていた。引っ越した私たちを遠くまでわざわざ訪ねて来てくれた子供たちは、ちょっと成長して背も高くなり骨太くたくましくなって声変わりなんかしていた。

 到着の日、駅まで迎えに行って、早速お昼ごはんを用意し、ワイワイと騒がしく過ごした。夜は、息子の部屋に押し合いへしあいマットレスを引いて久しぶりに夜中までおしゃべりとゲームに興じていたようだ。

 翌日、遅くまで寝どこにいた子供たちは、眠たそうな目をして海岸に出て、何時間も凧をあげて遊んできた。そうして、昼過ぎに帰ってきたかと思うと、その中の子の一人が代表して、「これ、お母さんにお礼です」と、大きな花束を私に手渡してくれた。

 高校1年生の男の子5人と、大きな花束、という組み合わせは、全然思いもかけていなかっただけに、とても嬉しかった。 16歳にもなると、なんてダンディなことをするんだろう、と心が躍った。

 世界一の花卉栽培と輸出量を誇るオランダ。
 日本の洗練された伝統工芸と贈り物の文化もいいが、オランダの花の文化もなかなかいい。

 昨夜も、成長して大学生になった息子のガールフレンドが、先日私が日本から持って帰ったお土産のブローチのお礼に、と一叢の花束を抱えてきて、いっしょに夕食を食べていった。

2008/12/11

言葉としぐさ

 ずいぶん前のことになるが、外国人と国際結婚をしている女性たちとネットワークを作り、意見交換をしていたことがあった。その中で、外国人の夫たちが「思いやり」がないという不平が共通していたのが興味深かった。

 確かに、言葉にしない素振り、あてこすり、といったものは、日本人ではない夫にはなかなか伝わりにくい。逆に、はっきり言葉にして「あなたのこういうことがこういう理由で気に入らないから直してくれ」というと、「ああ、そういうことだったのか」とすっきりと難なく伝わったりする。

 こういう、言葉以外のしぐさをコミュニケーションの道具する、というのは、価値観が多様化して個人主義が進んだ国ほど少ないのではないか、と思う。オランダなどは、まさに、その典型だ。1950年代くらいまでは、まだ、カトリックやプロテスタントなど、それぞれが属しているマイノリティ集団も固定的であったので、言葉にならないコミュニケーションが通用していた場面も残っていたかもしれない。だがそれ以後、特に、70年代以降、それまでオランダに主流の既成概念として受け入れられていた様々のタブーが突き崩されてからは、相手に対して「わかってくれるでしょう」「わかっているはずなのに」という期待をかけた仕草はほとんどできなくなってしまったのではないか。

 日本に帰ると、そのたびに、このオランダと日本の差を感じる。

 いちいちこちらの考えを完全に言葉にしなくても、相手が「思い図って」先に気を回してくれる。
 その居心地の良さと言ったら、それこそ言葉にしてあらわしようもないほどだ。普段、自分の気持ちを常々言葉にしなければ、周りから理解されなかったり無視されたりする社会に慣れ親しんでしまっているだけに、頭に思いを浮かべただけで物事が進んでいくかのような日本の人間関係は、他に比べようもないほど心地の良いものだ。
 最近「空気を読める」という言葉が流行っているが、たぶん、このことを言っているのだろう。

 ただ、問題は、その逆の場合だ。そして、そう思うと、「空気を読め」という日本的な社会的な圧力は、国際的な異文化交流の場面では、むしろ逆効果なのではないか、と危惧する。

 日本人が外国に出て行った場合、単に、英語が堪能ではない、という理由だけではなくて、普段から、感情や意見を一つ一つ正確に言葉で他人に伝える努力をしていない、ということが裏目に出てしまうからだ。

 何を隠そう、そういう私自身も、今から25年以上も前、はじめてオランダに来たときには、それが最大の問題だった。若い娘はつべこべ言わず黙って微笑んでいればいい<日本>から、はっきりモノを言わなくては何を考えているかなど誰も顧みてもくれない<オランダ>に来たのだから、、、

 しかし、長く外国に住んでいると、こういうことも考えるようになった。
 日本ほどではないにせよ、どの国にも、言葉以外の小さなしぐさや表情による意思疎通があるものだ、ということに気付くようになった。あるいは、その国だけで使いならされた言い回しが、言葉通りの意味ではないこともある。
 たとえば、何かを英語で議論していて、アメリカ人やイギリス人が、Oh, that is interesting! といった時には、字義通りに受け止めないほうが無難だ。「興味深い」などとは、相手は微塵にも思っておらず、実は、「なんだ、月並みな話だな」としか思っていない場合が大半だからだ。
 しかし、これとて、国際的な場面で、いろいろな文化的な背景を持つ人々が集まっている場では、既成の、皆が了解している共通のサインとしては、機能しないだろう。
 どの国の人も、自分の背負っている文化的な背景を、いったん自分から取り外す努力をして、相手に耳を傾け、自分の考えを言葉にするのが、異文化交流の第一歩なのだ。

 当たり前のことだが、外国で暮らすとなると、コミュニケーションは極めて重要。誤解が重なれば、ただでも孤立感の強い外国で一層孤立してしまう。ありとあらゆる感情や意見は、可能な限り「言葉」にして表現しておいたほうが、自分の精神を健全に保つためにもよい。

 昔は「郷に入れば郷に従え」と言って済ましていられた。それくらい、わざわざ外国に出かけて行く人の数は少なかった。それぞれの国で、その場の文化的な規範を丸ごと受け入れて、それに従って行動できるのならば、それにこしたことはない。
 しかし、何カ国もの国を動いて仕事をしたり、様々の多様な文化的な背景をもつ人々が一同に集まる場所に行く場合にはいったいどうすればよいのか。やはり、自分の立場や意見は、言葉で説明していくしかない。そうしなければ、無視され、「何も考えていない」と思われても仕方がない。

 思いやり、微笑みの文化は美しい。その優しさは貴重だ。そういう仕草は、外国でも尊重されることは疑いもない。だが、そのことと、自分自身の思いを相手にきちんと伝えきれているか、ということとは別のことだ。自分の考えを尊重されたい、相手と同じ土俵に立って、ともに何かをなしたり、ともに社会に貢献したい、という気持ちがあるのなら、日本の外に出ていく時には、それをちょっと言葉にして、自分が何者あるかを説明できる能力は、育てていたほうがいい。

 言葉が通じない間は「空気を読む」のも大事だと思う、しかし、それに頼ってばかりではまずいだろう。やっぱり、様々の文化的な約束事から解放されて、異文化の人々が一堂に会し、平等に世界の未来について話し合っていく国際化の時代には、言葉を手段としたコミュニケーション能力が、とても大切だと思う。

2008/12/10

子どもが生きづらい時代

15歳の子供が警官の放った銃弾に倒れたことをきっかけに、ギリシャでは、未成年の子供たちの抗議運動がおこり、それがついに、労働組合までを巻き込んで大規模のストにまで広がっている。ニュースでは、まだ、その子供が撃たれた時の背景などが詳しく伝わってこないので予断を許さない。しかし、少なくとも、こういう抗議が一気に全国に広がり、大人達までを巻き込んで、現政府への抗議にまで広がったことの前提には、人々の間に余程の不満があったらしいことがうかがわれる。

 子供たちの犯罪について、最近、興味深い話を二つ聞いた。

 一つは、尾木直樹氏が主宰しておられる臨床教育研究所「虹」が行った「大人の子供観に関するアンケート調査」報告の中で問題提議されていたものだ。日本では、この数年、一般に、子供の少年犯罪が増えたり凶悪化している、というイメージがあるが、実はデータをくわしくみてみると、少年事件は増加も凶悪化もしておらず、むしろ沈静化している、というのだ。

 凶悪犯罪、ことに未成年がかかわった凶悪犯罪が起きると、日本の新聞やテレビは、総立ちになって繰り返し繰り返し視聴者の目や耳に同じ情報を送り込む。きっとそういうジャーナリズムのあり方が現実の姿を必要以上に誇張し、人々を不安に駆りたてているのだろう、と思っていた。

 そうしたらつい先ごろ、オランダのテレビの政治討論番組に、ユトレヒト大学の少年犯罪の専門家が出演し、オランダでも、少年犯罪の数はこの20年ほどの間減っていること、それにもかかわらず、国は、少年犯罪の予防のためにと「取り締まり」の強化ばかりを強調していると述べていた。対談の相手の、元警視庁総監の自由主義派の政治家に、「もっと子供たちの現実を見よ」と熱く訴えていた。

 日本でもオランダでも、大人たちは子供に対する信頼を揺らがせ、取り締まりに走らせているという。いったい何が、大人を不安にさせているのだろう。

 「凶悪犯罪」の数は、どちらの国でも「増えていない」という。しかし、「凶悪」さの中に、急速に変わり行く情報化社会の中で、大人たちが自分たちが子供のころには考えられなかったような犯罪が含まれてきていることに、いわれのない不安を感じているのかもしれない。 また、情報がインターネットやメールを通して、目に見えないところでいち早く不特定多数に伝播する今の時代、犯罪の連鎖を恐れているのかもしれない。

 しかし、そういう子供たちの環境を作ってきたのは大人たちだ。未成年の子供たちから、子供らしく育っていける環境を奪っているのは、大人のほうだ。

 日本と同じように、オランダでも、小学校の教員たちは、この10年ほどの間、ずっと「家庭教育が崩れてしまった、子供たちの社会性や情動性の発達を学校がしっかり担わなくてはならなくなっている」と議論し続けている。
 この10年ほどの間に起きた、日本やオランダでの急激な変化は、やはり、カネカネカネの産業グロバリゼーションのなせる業であった。カネの価値以外で、人の行動やモノの考え方、理想の生き方を堂々と示すことができにくい社会になってきた。

 モノを消費し、モノを買うための金を稼ぐために、大人たちは、男も女も一日の大半を労働のために使う。労働機会を求めて都市で生活しなければならない労働者たちには、親せきや友人と過ごす時間も少なくなってきていることだろう。都市空間には、子供が安心して遊べる場はなくなり、仕事に追われて疲労困憊している大人たちの姿に、未来への夢を描くこともできない。

 昔の子供たちは、「遠いよその国」に夢を描くこともできた。しかし今の子供たちの目には、インターネットを通じて、世界の隅々からの様子が手に取るように見える。人との対話、体温を感じる触れ合い、同じ場に生きることから生まれる共感、そういったものを何一つ経過せずに「見てしまい」「知った気分」になってしまう子供たちの意識には、冒険への夢は育ちにくいことだろう。なにより、家庭生活というほどの時間を家族と共有しない子供たちに、「対話」「触れ合い」「共感」を実感として感じられる育ちがあるのかどうか、、、

 いじめや不登校や自殺、そして、犯罪は、子供たちの悲鳴だ。五体満足に生まれてきたはずの子供たちですら、たった数年で精神を病んでしまうのだ。
 本当は声を上げて泣き叫びたい大人の感情や病状を体現しているのは、この子供たちのほうなのではないのかと思う。

 現実には、子供たちの「犯罪は増えていない」という。
 それなのに、大人は、こうして悲鳴を上げている子供たちに、もっと規則を、もっと規制をと躍起になっている。そうすることで、いったい誰が幸せになれるというのだろう。

 「産業先進国」といわれる国々が成し遂げた今の世界の、なんというみすぼらしさであろう。

 できることなら、政治家にもマスメディアにも、もっと人間としてポジティブに人間らしく生きようとしている人々の姿をこそ取り上げてほしい。数は少なくても、そういう人々の姿をこそ、繰り返し繰り返し伝え、社会の希望に結びつけてほしい。特に、未来を担っていく若者や子供たちのために。

2008/12/05

あとずさる民主主義???

 人間の社会は、普通、権威主義から民主主義へと発展していくものだと思っていた。けれども、今、日本では、民主主義が権威主義へ激しく撤退していこうとしているという。そうだとしたら、世界のなかでもそんな例はあまりにないのではないか。

 かつて日本通のオランダ人ジャーナリスト、カレル・ファン・ウォルフェレンは「日本・権力構造の謎」などの本を著わし、民主主義の発展を阻む日本社会独自の権力行使の在り方を外国人の目で鋭利に分析した。この本は、90年ごろ、”The Enigma of Japanese Power”というタイトルで、国際的にも広く知られた本だ。当時、ウォルフェレンの著作は、日本の中でも、少なくとも知識人階層の間ではかなり広く良く読まれたのではなかったか、と思う。バブルが崩れて先行き不安になった日本人にとって自らを省みるために重要な客観的な視点を与えてくれる本だったのではなかったろうか。

 最近、彼よりも何年かあとに、オランダの主要紙の特派員として10年余り日本に滞在したハンス・ファン・デル・ルヒトというジャーナリストが、日本についての本をオランダ語で著わし、そろそろ書店の店頭に出てきている。「くびきにひかれた民主主義―――スクリーンの後ろの日本」とでも訳そうか。彼は、90年代の後半からつい数年前まで、日本から様々の特集記事をこの紙面で発信していたので、日本に少しでも関心のあるオランダ人読者にはよく知られた記者だ。

 この3日、その広報の意味もあってか、ファン・デル・ルヒト自身が、NRC紙のオピニオンページの紙上で、かなり目立った記事を書いていた。
「非民主的な日本はゆっくりと後退していく」と題されたこの記事、副題には、「保守的なリーダーたちは将来へのビジョンを欠き、日本の伝統の豊かさを好んで話題にする」、そして、リード部分には「経済大国日本は、アジアの他の諸国が嵐のような成長を遂げているそばで、権威主義の過去へのノスタルジーにあとずさりしている」とある。
 ファン・デル・ルヒトは、バブル崩壊後の日本の経済について、日本の政治が無策であったこと、先進諸国の中では例外的なほどに大きな国庫負債を背負っていて尚、今回の金融危機でも将来への何の見通しもなく国庫から多額の金融支援注入を決めたこと、その一方で、失業率は急増、しかも、失業者として登録される数には疑いが多く、引きこもり・ニート・フリーターは増え続け、自殺者の数は倍増、生命保険の保険金を遺族に残してやっと家族を守る人がいると述べる。田母神問題にも触れ、日本の政治家や企業家の常軌を逸した歴史認識に慨嘆してもいる。

そして彼はこう続ける。
「(田母神の)この更迭は、実は、見せかけのものにすぎない。自由民主党の政治家たちは自分たちもまた戦争について肯定的な言葉で語りたくて仕方がないのだ。更迭などをするよりも、戦争についてのオープンな議論をすべきであった。こういう議論を行うことで、日本という国はこれからどんな国になりたいと思っているのか、それは、権威主義の国なのかそれとも民主主義の国なのか、という問いをやっと議論できたはずだ。現在政治の主導権を握っている人々は今もまだ岸信介の人形劇を演じているだけだ。岸は1930年代40年代の戦時内閣におり、一度は、アメリカ合衆国によって戦争犯罪人の容疑で刑務所に入れられた人だ。政治的日和見主義が彼を1948年に自由の身にした。」

 オランダの主要紙の紙上で、日本についてこのような報告がなされているのだ。
 日本国内の新聞には到底取り上げても貰えそうにない論説が、海外では公的に発表される。せめて、国外のメディアがどんな風に日本を伝えているかくらいは、日本人も知っていて良さそうなものだ。

 ウォルフェレンのころまでは、日本の書籍市場の中には、まだ、外国から見た日本や、外国の者への関心が大きかったと思う。しかし、最近は、日本人の海外事情への関心がとても薄くなってきているようだ。日本国内に山積した問題があまりに多く、海外のことなど考えている余裕がなくなっているのかもしれない。「お前らにオレたちの苦しみがわかってたまるか、自分たちだけいい生活をしていて偉そうなことを言ってくれるな」とでも思っているのかもしれない。

 しかし、それだけではないように思う。
 特にテレビや新聞といった、一般市民への影響力が極めて大きなマス・メディアのジャーナリズムが、日本社会についての自己批判を書きたがらなくなっているのではないか。もともと、政権を獲得している与党の議論以外は避け、批判的な意見には発言の場を与えてこなかったのが日本のテレビや大手の新聞だ。その中で、唯一、率直で忌憚のない意見が聞こえたのは、日本国内に政治的立場を持たないだけに偏見の少ない外国(人)からの視点だった。しかし、それさえも、最近はあまり大きな影響力を持たないような気がする。少なくとも、様々の世界の出来事について諸外国のジャーナリストたちの論説がほとんど同時で伝わるオランダとは大きな違いだ。

 日本は、戦後アメリカ占領の下で「民主主義」制度を取り入れた。アメリカ主導の上からの「民主主義」を、ファン・デル・ルヒトは、日本人の政治的な確信によって生まれたものではなく、単なる「日和見主義」からのものだった、という。現に、朝鮮戦争勃発以後、米ソの冷戦体制が固まっていく中、日本の社会主義的な運動はことごとく抑圧され、日本の政治は、アメリカ合衆国の傘の中に完全に置かれることになる。その時代、戦争を放棄した日本人が、過去に目をつぶって、ひたすら「経済発展」のために身を粉にして働いていた、ということを思えば、その非は、日本人自身のものではなかったと言い訳することもできなくはない。

 だが、それが、どれだけ日本人と日本という社会の未来を担う子供たちを不幸に陥れるものであったことか。ヨーロッパの国々では、この同じ時代に、高度の社会福祉制度が確立し、人間一人ひとりの価値を認める社会意識が力強く発達していったのだ。そして、その差は、バブルがはじけた時に、日本人の目にも一目瞭然であったはずではないか。

 けれども、そのすべてが誰の目にも明らかになった今、日本人はまたしても、世界に目をつぶろうとしている。まるで耳を両手で塞いで「イヤイヤ」と首を横に振っている子どものようだ。そして、今回の日本人の選択は、60年代のそれのようにアメリカのせいにするわけにはいかない、日本人自身の選択だ。

 かつて黒船が来て日本が開国を迫られた時に、指導者たちは、日本が世界から技術的に後れをとっていることを垣間見ていたにもかかわらず「イヤイヤ」をした。唯一長崎の出島に窓を開いて見ていたオランダから、日本の遅れは見えていた。

 今回の日本の閉塞はあの時代の鎖国主義と同じだ。誰が風穴をあけるのか。 

 しかし、ここには大きな大きな問題がある。
 こんなに議論することも政治に参加することも知らないままの日本人であるというのに、自分たちで勝手に「民主主義を見てしまった」と思い込んでいることだ。日本のテレビやジャーナリズムは、反対意見を持つ知識人を公共の場から押し出しているというのに、それでもまっとうに、民主主義国のメディアを背負っているつもりでいることだ。多くの学者たちが、日本語の論文を書くだけで、英語での学術論争をしないままにお茶を濁してしまっていることだ。批判のない政策や科学は退化するだけであるというのに。

 日本では、民主主義が後退しているのではない。日本には、いまだかつて、一度も「民主主義」など存在したことがない。そして、非民主的なままの日本は、せっかく到達した「先進国」という肩書も、ひょっとしたら、いつか返上してしまわなくてはならなくなるかもしれない。
 

2008/12/01

反骨の血

 わたしの母の父方の家系は、かつて九州一の家具の町といわれた大川で、製材所がつかう機械を導入したり、電気機器を取り扱うなど、技術畑の仕事をしていたらしい。いわゆる「家柄」というほどの由緒のある家ではなかったが、先取の気性はあったようだ。

 父のほうの家系は、代々続く神主の家柄、数代前には国学者もいた。しかし、そういう父方の親戚の人々のことを、私は子供心にも、なんとなく線質が細いと感じ、母方の親戚の方が、家柄などにこだわらない、男っぽい気性の人たちだと思っていた。


 戦時中の、自由な空気が閉ざされた堅苦しい世の中で働き盛りの年齢を過ごした母方の祖父は、そういう嫌な時代に、自分なりに反骨の気分を心に滾らせていた人であったらしい。


 当時十代の半ばだった母。学びたかった英語は授業から締め出され、県大会で優勝までいったバスケット部での活躍も、全国大会の廃止で夢が閉ざされる。女学校の授業は徐々に学徒動員で飛行場での飛行機作りに代えられた。食糧は次第しだいになくなり、家にある金属類は拠出させられ、空襲警報が度重なるようになり、母たちの青春は、鬱々とした時代の中に奪われていった。


 若かった母の神経はそういう緊張の中で研ぎ澄まされていったのだろう。空襲警報が鳴る前に敵機の到来を感知して、家族を気味悪がらせたという。夜間には、家の室内の灯りが外に漏れて空襲の的にならないようにと、近所の役回りが始終見張りに来ては注意をして回っていた。

 母は、そういう時代、祖父の勧めで仕舞の稽古に通っていた。夜間、外に灯りが漏れないように真っ暗に目張りをした家の座敷で、祖父は母に「さあ仕舞でも舞え」と促したという。近所近辺の人たちは、そういう祖父をどんなふうに見ていたのだろう。「こんな時に贅沢な風流」と後ろ指を指していたのだろうか、それとも、ぎすぎすと息苦しい時代に、風流を忘れない祖父を陰ながら「いい奴だ」と思ってくれる人もあっただろうか。平和な時代に生まれ育った私には、祖父の反骨をただ誇りに思うばかりだ。何をするにも、他人がどう思うかを気にしてしまう気の小さい私などには、こんなに緊張の続いていた時代に、祖父のような言動は到底できなかったことだろう、と思う。



 そういう祖父の一人息子で母の兄、つまり私の伯父は、この父親の男気のある凡庸とした大きさがために、かえって反りを合わせることができず、ずいぶんと苦しんだらしい。反骨精神の旺盛な父親のもとで、自分もまた同じ反骨の血をひいていた息子には、若者らしい<反抗>以外に自分らしく生きる術はなかったのではないか。


 この伯父のことを私は長く識らなかった。嫡子であったにもかかわらず、若いころに家を飛び出し、長く行方不明だったからだ。飛び出したが最後、家には一切寄りつかず、母が嫁いだ時も、祖父が亡くなった時にも姿を現さなかった。やっと故郷に帰ってきたのは、私が中学生の時だった。家を出てから、たぶん20年くらいの歳月を経ていたのではなかったか、と思う。



 伯父は、祖父が亡くなって未亡人になった祖母が、とうとう自分で身の回りのことが出来なくなり母の嫁ぎ先に来て一緒に住むようになっていた頃、ある日突然、空き家になっていた実家に帰ってきた。そして人づてに母の居場所を訪ねてきた伯父を、母はそれでも嬉しそうに迎えた。だが私は、この伯父について、長いこと、「身勝手な親不孝者」という先入観を持ってしか受け入れられなかった。祖母や母と共に伯父の家を訪問しても、「この人は親を捨てて出ていったようないい加減な人なのだから」という気持ちが先に立ち、伯父の言動をまともにを受け止めようとは一度も思わなかった。
 
 そんな伯父は、晩年、いくつもの慢性病を患っていたというのに、結局、母よりも長生きすることになった。  8年前に元気だった母が急逝してしまったあとに、母方の血のつながった親戚としてのこされたのはこの伯父ひとりだ。母の思い出を手繰るように、私はその後、帰国するたびに、伯父夫婦を訪ねるようになった。ずっと疑心暗鬼の気持ちを抱いて真面目に会話などしたことのない姪だ。伯父の方も、私には、粗っぽい言葉遣いしかしなかった。それでも、訪ねていけば、叔母と共にいつも大事にはしてくれた。
 
 そういう風にして伯父の元を訪ねていたある日、伯父にふと、昔母から聞いていたことを尋ねてみたくなった。母は、伯父が、昔、戦時中に徴兵で兵隊にとられていた時、ある事件を起こして、それが原因で、祖父が村の権力者たちに大盤振る舞いをして伯父に汚名が残るのを避けたことがあった、と言っていたからだ。

 しかし、その「事件」とは一体何だったのだろう。今まであまり気にかけてはいなかったが、その時、はずみで、ふと聞いてみたくなった。

 小春日和の庭を眺めながら、炬燵に足を突っ込んだまま横になっていた伯父は、そういう私の問いに驚く様子もなく、徴兵先で、自分ともう一人の同僚に夜の見張りを命じた上等兵が、自分の持ち場で居眠りをしていたのが気に食わず、カッとして殴りつけたんだ、という話をしてくれた。血気盛んな年だったのだなと思う。今、そのことを思い出話として語る伯父の言葉にも、その上等兵の体たらくを思い出してか、幽かな苛立ちが浮かんでいる。

 なぜこんなに気持ちの良い話を今まで一度も聞かずに来たのだろう、と私はその時思った。伯父を誤解してきた自分がさびしく、長い間の誤解が、その時ポロリと力なく落ちたことが、変に滑稽でもあった。別に、大げさに、伯父に言葉を返したわけではない。記憶の底の思い出を語って、少し自虐的に笑っていた伯父と一緒に私も笑って返しただけだったように思う。
 今年の夏、その伯父も、とうとうなくなった。亡くなる前に、あの話を聞いていてよかった。今、帰国して手を合わせる仏前の伯父には、血の通った伯父への懐かしさはあっても、親不孝者とという責めの心持ちはない。

 ともあれ、兵隊だった伯父が起こしたこの一件は、天皇崇拝、上意下達の極限をいっていた戦時中のことだ。そのたった一夜の事件は、もしかすると伯父のそれからの一生を台無しにするかもしれない大事件だった。だから、祖父は、村の権力者を集めて息子の汚名を果たすために、大枚をはたいて飲めや唄えの宴会をしたのだった。

 何という時代であろう。
 戦時中のことだ。そこそこに潤沢な家計だったとはいえ、先行き不安のその時代、蓄えは、どんなにあっても十分とは思えない時代だったろう。それでも祖父にとって息子の将来はカネなどには代えられないという思いがあったのにちがいない。
 しかし一方、親の資力で人生を救われた息子にとって、そんな父親の元にいられなくなったのは当然といえば当然のことだ。ほんとうに、何という時代であろう、、、、

―――――

 オランダ人の夫との結婚が決まって間もなく、わたしは、オランダ人たちの間に、400年余りに及ぶ友好的な日蘭通商という歴史に所以する温かい日本へのまなざしのほかに、他方で、相当に厳しい反日感情があるということを知った。
 第2次世界大戦中に、蘭領インドと呼ばれた今のインドネシアの地域で日本軍の捕虜となった経験を持つオランダ人たちが多数いるからだ。乳飲み子の年齢で、強制労働に取られる父親と引き離され、劣悪な生活環境の収容所に捕虜となって押し込められた人たち、9歳ほどの年齢で母親から引き離され、男だけの捕虜収容所で、病人の世話や死人の始末をさせられた子供たち、異常な生活環境で発狂する母親に精神の安定を奪われた子どもたち、捕虜体験の果てに終戦後両親や兄弟姉妹を失って着のみ着のままで赤十字社が配給した襤褸衣装を着て寒い北国のオランダに帰還した人は少なくない。慰安婦とならされ性の奪われた少なくない数のオランダ人女性らの恨みは今も続いている。捕虜収容所時代の記憶から解放されず、今もトラウマが続いている人たちは、日本人が周囲にいると知るだけで、不安でいてもたってもいられなくなるという。

 こうした、日本軍の捕虜となった経験を持つ人、その子どもたちがどれだけいるのか、日本人はほとんど知らない。だが、前政権の外務大臣は自身が捕虜体験者、現政権の厚生省国務次官は捕虜体験をトラウマとして持っていた父のもとで育った人だ。いま日本に駐在しているオランダ大使のお父さんも捕虜体験だということを最近知った。有名な作家の中には、日本軍への怨念ともいえる思いを今も題材に本を書き続け講演している人もいる。それほど、オランダには、日本軍の捕虜体験者やその家族がたくさんいる。そして、そういいながらも、その人たちのみながみな、今の日本に恨みや怒りを抱いているとも限らない。戦争というものの異常さを理解し、日本人に対する不信や反感、トラウマを乗り越えた人たちもいる。

 そういう捕虜体験者との対話の会にわたしも加わっている。トラウマを乗り越え、日本の今の世代の人々との対話を求めているオランダ人と、年に1回集い、お互いに意見交換をしている。
 
 日本軍の犠牲になった外国の人たちに「詫びる」現代の日本人は少なくない。「和解」「赦し」という言葉がそういう会合では飛び交う。キリスト者の中には、宗教を媒介に、犠牲者と共に「和解」の祈りをする人も多い。若い学生など、自分の国の歴史の汚点を初めて知らされ涙を流す以外にすべを知らない子もいる。それらがすべて間違っているとは、私も、もちろん思わない。しかし、私には、「詫びる」「和解を求める」「赦しを請う」「共に祈る」という行為が、素直に、自分の率直な意思としてできない。
 
 わたしには、軍の上官の指令を受けて、オランダ人捕虜を強制労働に駆り立て、人間の仕業とは思えない拷問をしたり、女たちを強姦していた日本人兵士の方が、苦しみの底にあったオランダ人に比べて、どう見ても、より一層みじめな存在に思われて仕方がないのだ。彼らは、人間としての理性と感情を誰からも認められていなかったのではないのか。
 捕虜としての苦渋の日々にも、強制労働に取られていた夫と愛情に満ちた文通を続けていたオランダの女性たち、収容所でなけなしのガラクタを上手に集めて、絵を描き、楽譜を作り、日本人兵士の風刺画を描き続け、すごろくなどのゲームを作って遊んでいた捕虜たち。死の床にあって「日本人を憎んではいけない、これは神の仕業なのだから」と言い残して神への祈りの中で死んでいったという母親たち。日本人の行動を理解しようと日本文化についての本をむさぼり読んでいたという人たち。彼ら彼女たちの方が、人間の尊厳ということをどれだけ信じて豊かに生きていたか、と思うと、上官の命令だけで自分の意志など持つことも許されなかった日本人兵士の方が、みじめで惨めで情けない。今になって「詫び」「和解」など偉そうに言えるほど、日本人は、尊厳をもって生きることを許されていたのだろうか、今の日本人は、そんな偉そうなことが言えるほど人間としての尊厳のある生き方をしているのか、と思ってしまう。

 あの時代の日本の精神、あの時代の日本の教育は、しかし、戦後も何一つ変わっていない。
 変わらないままの日本、そこに生まれ育った私は、戦争中の出来事、沖縄のことを学校では何一つ学ばずに過ごした。そういう自分に、一体、どんな気持ちで、このオランダ人たちに「詫び」たり「和解」せよというのだろう。

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 祖父や伯父の反骨の血が私の中にも少しは流れているのではないか、そうであったらよいな、と時々思う。
 
 反骨は理性だ。

 しかし、戦後60年以上たち、物質的には何不自由ない社会となった日本でさえ、祖父や叔父のような反骨は、きっと出る杭を抜き取るように排除されるのではないか。
 人間としての普通の感情、人間としてごく自然に行きつくはずの善悪についての理性を心に抱いていても、なお、そういう社会の中で「協調して」生きなければならない人たちの不幸は、捕虜の苦しみと変わらぬほどに、あるいは、それ以上に深刻に、人間の生にとって重篤な不幸だ。

2008/11/29

寄らば大樹の、大樹なく

 民主主義の対極にあるのは独裁者による全体主義、というのは中学生でも知っている常識だろう。

 戦前の日本にはその全体主義があった。独裁者だったのかどうかは別として、一応、天皇がこの時代の最高責任者だった。
 戦局が悪化し、二つもの原子爆弾が投下され、武器を持たない多くの市民が犠牲になった挙句、天皇は敗戦を宣言し、天皇の神格は、その日、終わりを告げた。
 今、天皇家は週刊誌や本でさんざんにバッシングを受けるようになった。この天皇が神格者として崇拝されていたことを記憶している人も、もうほとんどいないのだろう。

 独裁者はいない。だが、終わっていないもの、、、それは、日本の全体主義だ。

 誰からも「従え」と言われず、誰からも脅迫されるわけでもないのに、みなが、倣うべき「右」はどっちなのだろう、といつも自身ではない何者かを頼りに、つき従い、同調しようとアンテナを張って暮らし、働いている。言葉にされない社会的圧力が仕事場にも私的領域にも感じられるのだろうか。あてこすり、いじめ、お仕着せ、、、言葉にならない圧力をいち早く察して、摩擦をさけ、平穏に事を済ませようとするうちに、ことあげしない人々は、いつの間にか、みんなで全体主義の社会を支える羽目になっている。しかし、目の前の平穏は、実は、日本人ひとりひとりの幸福を内側から崩し去り、日本という国の未来の基礎をガタガタに覆すものなのだ。気づいていてもどうにもならない社会に大人たちも生きているというのか、、、、、でも、そうだから、未来を生きていかねばならない子どもたちが、未来の社会に希望を持てずに悲鳴を上げているのではないのか、、、

 人々の感情を扇動するようなカリスマ的な政治家は、どこのどんな文化背景を持つ社会にも時として現れるものだ。ポピュリズムという大衆扇動の政治は、状況次第で、どこにでも生まれる。それほどに、人間とは力なく、外からの圧力に左右されやすい。
 けれども、たいていの国には、そういうポピュリズムの危うさに敏感な有識者やメディアが、市民の理性に訴えて、このポピュリズムの蔓延を防止しようと動き出すものだ。しかし、なぜか、日本には、そういう有識者やメディアの力が圧倒的に小さい。有識者やジャーナリストまがいが、自ら進んでカリスマ的な人気を求めて、政治も社会的事件も娯楽番組化してしまう、お祭り騒ぎのテレビに登場する。ポピュリズムに対して論理で戦うべき有識者自身が、自らポピュリズムの力、大衆からの人気取りに屈しているように見える。

 日本人の教育程度は、今でも世界でもトップクラスだ。それなのに、いったいどうしたことだろう、、、

 寄らば大樹のつもりでいても、そこには、寄っていく大樹のような独裁者さえもいないというのに。

 エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」という言葉が心に響く。しかし、その「自由」の意味をすら、ひょっとすると日本の大人たちの大半は本当には知らないし、学校でも知らされたことがないのではないか。

人間の数と同じだけある「良心」

 その著書に感銘を受けてどうしても会わずにおれず尋ねていったオランダの教育学者。しかし、その人は、ある日本の学校の「古い」タイプの、私の目には「権威主義」としか見えない教師を映したドキュメンタリー映画に感銘を受けていた。
 個人主義が究極まで行きついたオランダのような社会で、その人は、教育学者として、子どもたちに、集団として生きること、自分ひとりの勝手な利己的な意見を主張するだけではなく、他の人の意見も受け入れて共に生きる調和的な社会を求めていた。それだけに、権威主義的であるとはいえ、子どもたちの訴えに耳を傾け、最後には、子どもの言い分を聞きいれ、惨敗を認めたこの映画の中の教師が、個人主義の進んだオランダではありえない存在、パートタイムの職業と化し学校の中だけで表面的に事を済まそうとする教師たちが増えている今のオランダの学校には期待できないことに見え、深く感動したらしい。
 しかし、その同じ映画を、私は、嫌悪の感情でしか見ることができなかった。なぜなら、私は、日本的な、個人の自由意志や自立を認めない集団主義に心から嫌気がさしているからだ。日本の学校には、私生活を投げ打って子どものために尽くす教師がいることを知っている。しかし、その映画の中の年配の教師は、まるで、子供に対して軍隊の隊長ような言葉づかいをしていた。その権威主義的な教師が、いうことを聞かない子供に対して、授業の成果としてのイベントに他の子供と共に参加することを禁止した時、他の子供たちは、必死になって、禁止を撤回するように教師に訴えた。その間、この教師は、腕組みをしたまま、子どもらに目を合わせるどころか、目をつぶって天を向いていた。そういう教師を、下から恐る恐る見上げている子供たちは、目に涙さえ浮かべている。 とんでもないことだ、と私は腹が煮えかえるような気持ちがした。

 一体全体、学校という、子供たちにとっては一日の大半を過ごす「生活」の場にあって、どんな理由があるにせよ、子どもの方が涙を流して教師に訴えなくてはならない理由がどこにあるというのだろう。
 大人が、人生の経験者として「権威」を持って子供たちを導かなくてはならない、というのはわかる。子供たちが、勝手に育つのをよしとするような自由放任は、私も望んではいない。だが、腕組みをして顔を天に向けたまま、子供たちが求めている真摯なコミュニケーションを阻むように「目をつぶって」しまう教師など、私はやはりご免こうむりたい。

 オランダのその教育学者が感銘を受けた映画について、私が真っ向から反対の感想を述べた時、この人は、はっと思ったらしい。彼の映画の記憶の中には、腕組みをしている教師が目をつぶって上を向いていたことは残っていなかった。子供たちが涙を流して訴えていたことも。それよりも、一人の子どものために教員に一致団結して訴え続けた子供たちの姿と、万事ことが終って、教師と子どもが仲睦まじく何事もなかったかのように学習の成果を一緒に愉しんでいる様子、そして、教員が子供たちへの「敗北」を率直に認めたことだけが、彼の記憶に強く残っていた。

 自分にとって気がかりなこと、日頃から意識に上っていること、答えを求めて問い続けていること、、、人は、それらによって、自分が見聞きするものから、無意識のうちに情報を取捨選択している。だから、同じことを見ていても、頭に入ってくる情報や考えることが様々に異なる。

 そんな話をしていたら、ある友人がこんなことを話してくれた。
 3人姉妹の末娘、母子家庭で育ったその友人は、豊かではなかった家庭で、母親との関係に様々の苦労があったという。また、3姉妹の関係も、それが原因でぎすぎすとしていた。その母親が90歳を超えて亡くなった後、何年もの隔たりを超えて、3姉妹は一堂に会し、母の思い出話をした。その時に、同じ出来事について、3人が全く別の感情を持って記憶に残していたことに、3人とも初めて気付く。何十年もの長い間、それぞれが自分の心に描いていた母親像は、3人3様にとても違うものだった、という。幸いこうした時間が持てたことで、長い間の誤解が解け、3人がやっと理解し合えた、と彼女は言った。興味深い話だ。

 モノの考え方は、文化の違い、時代の違いによって決まる、などと、したり顔の文化人類学者などがよく言う。確かにそういう面はある。しかし、人間の考えは、そんなに簡単に、分類されるようなものではなかろう。多様な価値観が限りなく広がり、人の交流、情報が飛び交う今の時代、文化的アイデンティティや時代の意識などでくくられる価値観をもう少し超えた意識への考察が大切なのではないのか。文化や時代といった大雑把な価値観の枠組みのほかに、わたしたちの考え方には、個人としての経験や関心、問題意識の違い、その社会の中での自分の立場の違いなどが、大きく反映している。

 「良心の自由」という言葉がある。基本的人権の一つだ。

 「良心の自由」を説明するのに、西洋では、よく漫画などに出てくる右肩の「天使」と左肩の「悪魔」が使われる。「天使」と「悪魔」がどんな顔をしているか、それは、人一人ひとり異なる。ある人の天使と悪魔は、他の人の天使と悪魔とは違う。「良心」とは、すべての人が、一人ひとり、自分が、それまで生きてきた時代や、生まれ育った場所、独自の経験、問題意識などによって、自然と作り上げてきた、ひとまとまりの善悪の判断基準のことだ。だから、「良心の自由」とは、一人ひとり異なる善悪の判断基準を、互いに尊重せよ、ということだ。

 その自由に唯一縛りをかけるのは、人間の命を傷つけたり、それを持って人間の社会の安定を転倒させたりする行為が伴う時だ。それは、テロリズム(暴力)と呼ばれ、民主主義の安寧を覆す最も大きな敵対者だ。それは、「言論の自由」「表現の自由」「信条の自由」など、他のすべての基本的人権としての「自由」にたいする縛りだ。

 「良心」は、すでに死んでしまったものも、今生きているものも、これから生まれてくるものも含め、人間の数と同じだけある。

性は明るい日の下で

 今日11月29日付の読売新聞では、ブラジルで開かれていた「第3回児童の性的搾取に反対する世界会議」で採択された「リオ協定」により、今後、インターネットや携帯電話での児童ポルノ、また、過激な性的描写をしているアニメーションなどに対する規制の対応が強化される見込みで、この対応については遅れていることで知られる日本が、今後国際的な圧力を受けることになるだろう、という記事が発表されていた。

 いじめ、不登校、未成年の自殺、未成熟な子供たちによる殺人、その後の更生教育の不在、など、日本の子供を取り巻く環境はきわめて劣悪だ。そのうえ、上のような記事を読むと、日本の子供たちの生育環境の貧しさに、目を覆ってしまいたくなる。

 日本という国には、世界中の産物が集まってくる。東京には、世界中のありとあらゆる国のレストランがあるという。現に私自身、品川駅の構内のスーパーマーケットで、私が住むハーグ市特産のキャラメルを目にした時には、さすがに口をあんぐり、驚いた。以来、オランダから帰国するたび、いったい何をお土産に日本に持って帰ったらよいのか悩んでしまう。そんな風に、物質的には世界中のものが「何でも手に入る」の日本だというのに、なぜか無いのが「世界の常識」。子どもの権利、未来を支える次世代の人権を守るという意識だ。

 性意識の解放は、欧米にもそれほど長い歴史があるわけではない。
 数年前に、オランダの主要全国紙の一つであるNRC紙の出版局が、「70年代の映画シリーズ」と題して、当時ヨーロッパで作られた話題の映画のコレクションを発売した。12本にまとめられた代表的作品には、ドイツ、フランス、スウェーデン、スペイン、イタリア、トルコなどの映画が含まれ、70年代のヨーロッパで、何が人々の意識を捉えていたのかがうかがえる。
 そこに、共通しているテーマのひとつは、当時の人々の性意識変革への意欲ということだ。当時、ヨーロッパの人々は、西側の消費社会の腐敗、鉄のカーテンの後ろに垣間見る核戦争勃発への恐怖、古い価値観としての教会主義、産業社会モデルの学校、家庭や仕事場での権威者のタテマエなどをやり玉に挙げ、見るものを不快にさせたり、居心地を悪くさせるような、タブーへの切り込みをテーマに、ごつごつと映画を作っていた。
(Bergman, Fanny och Alexander(スウェーデン)、Blier, Les Valseuses(フランス)、Goretta,
L'invitation(イタリア)、Saura,Cria Cuervos(スペイン)など)

 性意識を解放するには、そういう、常識ある人々から顰蹙を受けることを覚悟した、かなり勇気のあるアクションが必要であるらしい。

 性意識をただ解放すればよい、とはもちろん私も思ってはいない。しかし、性の問題について話し合うことを日陰に追いやっている限り、倒錯した性の犠牲になっている人たちの声は聞こえてこないばかりか、人間として最も根源的な性の問題を社会的圧力によって抑圧してしまうのではないか、と思う。性を社会的悪として抑圧することは、人間の生そのものを社会的悪として排除し抑圧することに他ならない。

 冒頭に、「児童ポルノ」の問題を挙げた。
 「児童ポルノ」の問題は、子供たちにとっての人権保護の問題だ。しかし、意識変革を求められているのは大人の方だ。性教育が先進国のなかでも著しく遅れている日本では、実は、大人たちが、まず性的に解放され、その問題を、日の下で論じられるようにならなくてはならないのではないか、大人たちにこそ性教育が必要なのではないのか、と思う。
 今度のリオの世界会議のように「日本が遅れている」といわれることは、とりもなおさず、「日本の大人たちは子供を性虐待の犠牲にしても平気でいるらしい」と言われているのと同じことだ。そういう汚名を着たままで恥ずかしくないのか、、、のほほんと、「最近は日本のアニメが世界でも人気らしい。日本にもいいものはあるんだ。」などと悠長に自己満足に浸っている場合ではない。

 この新聞記事の最後の一文が、「今回の世界会議による協定は、国際条約ではないため法的拘束力はない」と書かれていたのに、私は、ひどく落胆した。早くも抜け道を探しているような表現ではないか。カエルが浸かった水をぬるま湯にし、徐々に温度を上げていけば、カエルはその変化に気づかぬままにその水から跳ね逃げてしまうこともなく死んでしまう、という。しかし、今の日本人は、ぬるま湯どころか、相当な温度になっている水の危険に気づいていないのではないのか。その証拠に、こんなにもたくさん、心を病んで苦しんでいる人や子供がいるというのに、「それも仕方がない」としか考えない大人たちの方が圧倒的な数ではないか。

 では、オランダでは、性教育はどう行われているのか。最近「オランダ通信」で簡単にまとめた記事があるので、関心のある方はそちらを見ていただきたい。
 性教育は、人間関係、人間理解の教育だ。男女の性の仕組み、避妊などについても当然学ぶ。しかし、決してそれがすべてではない。人間が、心だけではなく、からだを持った存在であること、男に生まれ、女に生まれることで、あるいは、同性愛、性倒錯の条件のもとに生まれることで、自分の理性や判断だけでは、時として制御し難い状況が生まれる可能性があるのだ、ということを冷静客観的に学ばせる。そうすることで、人間が、人間自身の体と心にとって凶器となる危険を持った存在であることを学ぶ。同時に、体の仕組みを理解することで、本来、人間には、肉体の制約を超えて、高い精神を持った愛情を築くことができる能力が備えられていること、人間の社会性とは、この肉体の持つ制約を超えて培われるものであるということを、現実から目をそらさずに教えるのが性教育だ。

 日本では、数年前、性教育をどこまでやるのか、やらないのかで、少し政治論議が行われた、と記憶している。その折に、ある保守派の女性政治家が、「性教育などをしたら、子供たちの性交年齢が下がって、望まれない妊娠が増え、風紀が乱れる」とかなんとか尤もらしい理由をつけて、議論を一蹴したと記憶している。浅はかな議論とはこのことだ。望まれない妊娠と堕胎は、そういう風にしたり顔の女性政治家が嘯いている日本の方がはるかに比率が高く、性を日の下で子どもの時から語っているオランダの方が圧倒的に低い。一般に、男性優位の伝統を残している国ほど、性暴力や堕胎数が多いというのは、世界の常識だ。

 本来、性の問題は、女性の人権と深くかかわって論議される。なぜなら、乱れた性の犠牲になるのは、ほとんどの場合女性たちだからだ。だから、性の問題を明るい日の下に持ち出し、男性たちを含め、女性の体がどういう仕組みでできているのか、女性の性が暴力の対象となった時に女の肉体と精神がどのように取り返しのつかない傷を受けるのか、を公共の場でしっかり論じておくことは、人権問題の基本なのだ。女たちの体が安全に守られていてこそ、多くの子供たちは、自分自身がほんとうに愛情のある関係から生まれ、愛情のある家庭で育てられ、未来の社会を支える次世代として健全に育てられていることを確信できよう。

 そんなことに思いをはせることもなさそうなこの女性政治家は、きれいなスーツに身を包み、すまし顔で、「私は育ちが良いので、そういうことは口にすることもできません」とばかりに、性の議論を日陰に追いやってしまった。男たちを仕事の戦場に駆り立てて、自分は、流行の衣服や靴に身を包み、何時間も高いレストランや喫茶店でおしゃべりに興じている主婦たちは、カネやモノではなく、心からの夫との信頼に満たされているのか。妻を、女を、「金」の力で組み伏せている男たちの心は、本当に人間として満たされているのか。性の問題は、やはり、その被害を最も被る可能性のある女たちこそ、口を開いていかなければ本当の議論とはならないのではないか、と思う。

 医学部に通う娘の同級生で、学生アパートの同居人は、全国の医学生から成る性教育振興クラブに属している。オランダの学校は、小学校から中学まで、これでもか、これでもかというほど、たびたび性教育をしてくれるが、中には、人員不足で十分に手が届かない学校もあるらしい。また、非西洋社会を背景に持ち、家庭でも、「性」の問題があまりオープンに語られることのない移民の多い学校などでは、最近、そういう子供たちにどういう性教育をすればいいのか、という悩みもあるらしい。
 この学生クラブのメンバーは、学校からの依頼に応じて、国のカリキュラム研究所が作った教材をもとに、学校訪問をし、子供たちに、性教育の授業をしている。また、それらの学校の教職員チームに性教育実施の研修もやっているという。皆、20歳前後の若い、独身の学生たちだ。イスラム教の背景、アフリカやラテンアメリカなど男性優位の伝統をもつ社会からの子供たちに、どういうアプローチをするか、ということも、教材の中では考慮されている。

 2年ほど前、ある中国系の女子中学生が、誘拐されて性暴力を受けるという事件が起きたことがあった。数日間行方不明だったが、その中学生自身が相手を凶暴にさせないようにコントロールしながら、隙を見つけて無事に救出された。救出後間もなく、この女子中学生は、テレビで事件の経過を報告していた。性的な暴力を受けた後であれば、どんなにか、精神的な痛手が大きかっただろう、と予想しながらその様子を見たが、画面での彼女の様子は、実に落ち着いていたし、経過を冷静に伝えていたのに、私はひどく印象づけられた。
 自分が性暴力の犠牲になったということを、こんなにも客観的に冷静にとらえることができるのか、と感心した。インタビューする側も、「興味本位」の質問をしないし、かといって、その女の子に「気の毒に」というような安っぽい同情を与えるのでもない。「性」へのかかわり方が集団の文化として成熟した社会があるのだ、と強く印象づけられた。

 日本では、最近、高学歴の女性たちの孤独が目立つ。
 良い学歴もあり、仕事もできるが、異性と過ごすプライベートな時間がない、結婚して子供を持つという未来が描けない、残業残業で家庭を顧みることもできない男と結婚しても本当に幸せなのだろうかと悩んでいる、高学歴の自分に見合う男性は自分よりももっと高学歴でなくては、というつまらぬタテ社会の既成概念に縛られている。男も女も、そういう悩みの中で、自然な肉体の欲求を持て余しているのではないのか。欝になったり、引きこもったりしている男や女たちに、心と体を解放できるプライベートな時間がないというのは、人間として、不幸極まりないことなのではないのか。

 数日前に発表された、博報堂の「家庭調査2008」によると、この20年間で、家庭の時間を持ちたいと考えている人の数は、夫の方が圧倒的に増えたのに対して、妻の方は、ずっと減少してしまったという。これは、一体どう解釈すればいいのだろう。
 一概に、ワークシェアリングなどの恵まれた労働条件のない日本では、夫が外で働き妻は家を守る、というパターンがまだ主流であるのだろう。そういう前提で見てみれば、不況に続く不況の中で、夫たちは、いよいよ激しい競争と労働条件の中に追い込まれ、その疲労の度合いは限界を超えているのではないのか。勤労の緊張を解き放ち、人間が「働くために生きるのではなく、生きて、元気な子供たちを育み、そのための環境としての充実した家庭を守るために働く」ものである、ということを思い出させてくれるのは、家族と過ごす時間であるはずだ。身を粉にして働かされている男たちが、家庭でやすらぐ時間を持つことで、自分の仕事の意味を見出したくなるのは当然のこととうなずける。できることなら、家事を分担し子供との時間をもっと持ってみたい、と思っているのだろう。だが、そんな夫の気持ちを理解している妻たちの数は、今、激減しているという。日本の夫婦の間にぎすぎすした関係が増えているように思われ哀しい。そうではない生き方があるはずであるのに。そうではない生き方は、西洋ばかりでなく、開発途上国を含め、多くの、スローな社会に、物質的にはずっと貧しい人々の暮らしの中に生きている。
 この博報堂のデータからは、単に、夫が家庭的になったというような薄っぺらな解釈ではなく、家庭的になりたくても、以前にも増して家庭での充実した時間を持つことがますます難しくなっている、という男たちの悲鳴をこそ読み取るべきなのではないのか。

 働き蜂のように働いても何の疑問も感じなかった団塊の世代。離婚、別居、家庭内離婚、家庭内暴力を体験した世代だ。今、その世代の子供たちが、どうやって家庭を築いていいのかわからず、うつ病や統合失調症に、そして、愛情の薄かった親たちとの生活のトラウマに悩まされている。

 金融危機で不況の打撃はまたしても大きい。しかし、それでも日本は、まだまだ豊かな国だ。少しスローダウンしてみれば?? そして、性や、ひいては、人間愛の問題を、もっと明るい日のもとにおいてみんなで話題にしてみてはどうだろう。そのことに、少し勇気をもって口を開いていかなくてはいけないのは、女たちの方であるかもしれない。「育ちの良い、身だしなみのある、すまし顔の」女を演じることは簡単だ。その方が、今の日本ではずっと生きやすいにちがいない。でも、敢えて勇気をもって、性について男も女も一緒にオープンに語る場を、できることなら女たちの方から作り出していくべきなのではないのか。「育ちの良い、身だしなみのある」女も、性と無関係に生きられるはずはない。

 元来、人間愛、子生み、家庭につながる性の問題は、暖かい「生」そのものの問題だ。

 暖かい「生」を取り戻すことは、それを失って、未成熟で、判断の力もおぼつかない子どもたちから、彼らの温かい「性」を乱暴に奪っている今の日本という社会に、もう一度希望を取り戻し、未来の日本が力強く息を吹き返す基礎を作ることに他ならない。

2008/11/26

いつの時代も若い者は

 シチズンシップ教育という語が、最近、ヨーロッパの国々で盛んに聞かれるようになった。背景に、2001年の9.11事件以後のイスラム教原理主義者の側からのテロによる脅威、また、デンマーク風刺画事件などで露呈した、西側の非西洋文化への理解の浅さ、また、それから来る「後進性」への差別、ひいては我々・彼ら感情による、感情の対立がある。

 現にシチズンシップ教育にかかわっている教育者たちには、実際に、近代化の歴史的な背景も宗教も文化も異なる子供たちが、現に、同じ社会で生きて大人になっていくという現実を前に、相当に深刻な取り組みを始めているように感じる。何せ、取り組んでいる教育者自身が、意識すると否とにかかわらず、独自の生い立ちの中でさまざまに身につけてきた既成概念に何重にも取り巻かれて生きているのだから。

 西側の国の子供たちには、個人主義や自立といった近代的価値が、外の世界では必ずしも自明のことではないことに気づかせなくてはならないし、他方、非西洋の背景を持つ子供たちには、家族や伝統的価値規範に対して、無批判に自分の行動を合わせるのではなく、自分自身で自己責任をもった行動をとらなくてはならない、つまり、近代社会の基本である<良心の自由>を教えなくてはならない。二つの世界の子供たちは、家庭や近隣での生活基盤があまりにも違うために、どう両方の子供たちに、同じ場を通じて、異なる方向のものの考え方を身につけさせていかなくてはならないか、大変深く悩むところだと思う。

 そんな中で、今回来日に同行したユトレヒト大学のこの分野第1線の教授や、彼とともに授業づくりをしている研究者たちは、「仲間市民としての子供たち」ということを大変強調する。子どもに、既成の価値判断の仕方や道徳的理念を教えたり、それについて話し合ったりするだけでは駄目だ、それをこそ対象に、子ども自身が考え、行動し、彼らの考え方感じ方に寄り添いながら、社会参加の訓練の場とすべきだ、というのがこの人たちの立場だ。

 そして、こういう考え方に私も心底同意する。近代意識がほとんど身につかないままに、高度消費社会だけをあたかも近代そのものであると誤解して生きている日本人。唯一、本当の意味での近代市民への取りかかりを見つける手段があるのだとしたら、それは、もう、若い世代に対して、こうして、社会参加の訓練をしていくこと以外にないだろう、と思っている。既成概念を身にまとうことだけに特化された画一教育を受けてきた大人たちを相手にでは、世界市民になるための意識変革など、ひょっとしたら、もう手遅れなのでは、とさえ思う。

 訪問中の東京都内の小中一貫校で、市民科教育に従事している先生方と話し合いの機会をもった。その折に、このオランダ人の教授が語りかけた言葉に、はっとさせられた。

「あなた方は市民教育が必要だ、と言っていますね。しかし、なぜ必要なのですか。あなた方は、今の子供たちの社会行動に問題があるといっておられるようですが、それは、本当にそうなのですか。太古の昔から、人間の社会は、いつもどこでも『いまどきの若い者たちは』と言ってきました。若い者というのはそういうものなのです。そもそも、若い人たちは、新しい時代を生きていかねばならず、大人たちとは違った目で社会を見ているのです。彼らが持っている情報や生活条件は私たち大人のものとは違います。だからこそ行動も異なるのです。しかし、そういう若者たちの行動は、大人たちが矯正していかなくてはいけないものなのでしょうか?」

 日本の先生方との会話が進んでいく間、私は、いろいろなことに思いを巡らしていた。
 私たちは、「問題だ問題だ」と騒ぎたてるジャーナリズムに惑わされているのではないのか。本当に社会にとって問題のある行動が増えているのだとしたら、どれくらいどんな風に増加しているのか、という具体的なデータを持っていなくてもいいのだろうか。私たちが安易に「問題だ」とする子供たちの行動は、果たして、本当に「問題」行動なのだろうか、、、、と。
 意外に、私たちは、自分の目でよりも、新聞や雑誌、テレビでセンセーショナルに伝えられる事件にばかり目を奪われ、現実には良い変化やよい動きがあるにもかかわらず、問題のほうばかりに目をとらわれているのではないのか。 私たち大人が、メディアの操作にまんまと騙されてしまっているのではないのか。

 その時、ある日本の先生がこういわれた。
「子供たちの間にいろいろと問題のある行動が増えているのは確かなことです。いじめもそうですし公共の場でのポイ捨てなども増えている、、人の迷惑を考えない子供たちの行動は確かに増えています。それに、電車の中など、公共の場所で、お化粧をしたり、男女で抱き合ったりキスをしたりしている若者も増えています。」

 と、この最後の言葉を聞いた時に、私は「あ、これはちょっと違うな」と思った。

 「公共の場で抱き合ったりキスをしたりする」

 これは、今、オランダに限らず、ヨーロッパの国々では、もう当たり前の光景だ。国際空港の到着口では、相当な年輩の人にとっても「公共の場で抱き合いキスをする」のは当たり前のことだし、太陽の日が燦々と降り注ぐ初夏の町のカフェテラスでは、若い男女の睦まじい光景は、ごく自然に見られる解放された夏の風物でさえある。
 新緑の萌え出る5月のある日、二つの自転車に乗って颯爽と車輪を回していく二人の男女の若者が、手をしっかりつなぎ、じっと見つめ合っている様子に、まぶしさを感じたことすらある。卒業試験合格の結果が出た日、明らかに合格発表を受け取ったばかりに違いない18歳くらいの男の子が、住宅地の路上をローラースケートを蹴って走ってきて、反対側から、これもローラースケートを蹴りながら髪をなびかせてきた女の子と真正面からぶつかるようにして抱き合い、キスをしながら喜びを分かち合っている光景を微笑ましく目にしたこともある。

 たぶん、こういう光景は、日本人にとってすら、相当な年輩の人であっても、ヨーロッパやアメリカであれば独特の光景として何の抵抗もなく受け入れられたものではないのだろうか。そして、それを見て、「風紀が乱れている」と思う人も、まさかいまい。むしろ、たいていの大人たちは「いいわね、ヨーロッパは人間らしくて」などと嘯くに違いなのだ。なぜ、同じ行動が、ヨーロッパではパチンとまわりの風景に収まり、日本ではだめなのだろう。

 日本の子供たちだって、感情を率直に表現したい、と思っている子は多いだろう。しかし、いろいろな規則や習慣や伝統的な規範がそれを阻止している。
 しかし、私が若いころには、めったに見られることのなかった男女が手をつないで歩く風景は、今の日本の都会では当たり前だ。公共の場で抱き合ったりキスをしたりすることも、ひょっとすると近い将来には、日本でも公然と明るい景色として当たり前のものになっていくのかもしれない。そうならない、という保障は、幸いなことにどこにもない。

 日本の学校の生徒手帳などにはよく「男女交際は公明正大に」と書いてあるではないか。口では「公明正大に」と言っておきながら、子供たちがそうしようとすれば、大人たちが顰蹙のまざしを向ける。子供たちの行動を公明正大にせず、あらぬ罪悪感に閉じ込め、男女の愛情を、あたかもけがらわしいもの汚れたものとして日陰に追いやっているのは、未来を子供に託す覚悟のない、大人になりきれていない大人たちの手前勝手なのではないのか、、、、

 日本の教室で行われた市民科の授業では、子供たちからいろいろな率直な意見が出されたにもかかわらず、最後に、先生が「それでは最後に先生がどう考えるかをまとめてみますね」とやっていた。そうして、「人の迷惑になることをしない、命にかかわるような危険なことをしない、相手の気持ちを考える」などといったありきたりの項目が並べられた。ごもっともなことばかりではある。しかし、そういうことは、はたして先生から「教えられて」学ぶものなのかどうか??? 「教えられ」たからと言って本当に身に付くものなのかどうか???

 子供たちには、オープンエンドで、つまり、いろいろな問いを頭に置かせたた状態で、一度家に帰してみてほしい。授業は、答えを学ぶ場でなくてよい。授業は、子どもが、自分の頭で考える問いかけを生む場所であればよい。
「なぜ、今の日本では、公共の場で抱き合ったりキスをしたりすることが人迷惑になるのだろう」「アメリカやヨーロッパの映画にはそういう光景がよくあるが、なぜ、かの国では、人々はそれを人迷惑だと感じないのだろう」
そういう問いを、若者自身が考え続けてみること。そして、そこから、自分だったら、どこでどうするかを自分自身の判断として生み出していくこと、それが、市民社会の「市民になる」ということだ。そういう、自分の頭での判断と、それとは異なる他人の判断の仕方を受け入れる意欲を持たなければ、未来の日本人は、一歩たりとも外国に足を踏み出し、他の国の人々と対等に生きていくことはできないだろう。そして、今刻一刻と増え続けている、未来の日本を日本人と共に支えるはずの外国からの移民たちは、いつか、そういう日本に嫌気が差して、さっさとお尻をまくってこの国を出て行ってしまうことだろう。
 

 

2008/11/19

自己肯定は他者肯定から

 ラッシュアワーの国電の駅。通勤者の波は人の波とは思えない。まるで、牛馬が牛舎から吐き出され柵に囲われた牧場に向かっているかのような光景だ。そして、夕方にはまた、狭い牛舎に詰め込まれるように、波に乗って小さな電車にきれいにおさまっていく人の群れ。誰一人として望んでそうしているのではないことはわかる。そうしなければ生きていけない社会が、人々に立ちはだかっているという事実が悲しい。
 たぶん、考えている余裕がないというより、考えると、自分たちのそういう姿があまりに虚しく、人間として疎外感だけが高まり、心の病になってしまうことを本能的に察知して、はじめから考えることを辞めてしまうしかないのだろう。週末や夕方、家庭や仲間とともに、少しでも人間らしい会話ができる人は、とりあえず、こういう通勤時間だけでも目をつぶっていればよいということなのかもしれない。しかし、そういうインフォーマルな社会関係を希薄にしか持っていない人々は、牛馬のように場から場へと移動し、どの場でも人としての心の触れ合いを経験することなく日々を繰り返すことになるのだろう。一部の性犯罪や痴漢行為は、まさに、狭い家畜小屋に閉じ込められた牛馬の本能的な行為を連想させる。

 そういうひとにとって必要なのは、おそらく、強制的にでも作られる人と人との触れ合いだろう。子どもの時から家庭にも学校にも人間らしい触れ合いを経験しないで育つケースが増えているらしい。大人になっても社会関係をうまく築けない人が増えているという。専門家に見守られたガイダンスのある社会性の形成は、今、日本では、大人の社会にも必要になっているようだ。

 日本人の自己肯定感が低いといわれる。しかし、それ以前に、他者を肯定するという態度が皆無なのではないか。 人は誰しも、誰か他の人に認められたいという欲望がある。そして、たった一人でも自分をほめてくれる人があれば、それが自分への自信に大きな弾みをつけてくれる。

 国電や地下鉄・私電の中でのありとあらゆるルール、それは、乗客を人間という頭脳をもった存在として信頼していないからに他ならないと思う。人間は、何も言わずに放っておけば、何をやらかすか分からない、自分では善悪の判断のできない存在である、つまりは、性悪説こそが公共ルールを作らせる理由なのだろう。

 もともと、他者に対して、肯定するとか褒めるという意欲はハナからない。そんな日本に「自己肯定感」などが育つはずはない。


 ある私企業の社内研修に行った。30歳前後の若い社員、それも、青少年期には、どちらかというと「できない子」「問題のある子」というレッテルを張られ、暴走族や非行に走ったような経歴を持っている青年たちだ。今は、小さいが、会社の目的に向けて力を合わせて仕事をしている、社員同士の温かい関係と、彼らの仕事の社会貢献への誇りが垣間見られる雰囲気のいい会社だった。

 研修の初日、私は、お互いに共同で何年も仕事を続けてきており、甘いも酸いもお互いに知りつくしているという、この会社の社員たち10人余りに、車座に座ってもらい、こう語りかけた。
「いまさら自己紹介などをしてもつまらないでしょう。なので、今、隣に座っている人を、その人が、この会社にいて、どんな点ですぐれているか、どういう点でこの会社に貢献しているのかを言って、他人紹介としてください」

 そうして、他人紹介が一巡したとき、この子たちの中の数人は、ほんとうに目に涙を浮かべていた。
 これまで、だれからも「褒められる」という体験をしたことがないのだな、と思った。

 「どんな人も完全ではない。みんな一人ひとりよい面も悪い面も持っています。でも、悪い面に目を向けるのではなくて、それにはとりあえず目をつぶることにして、良い面だけに注目してほしい。そうして、お互いの良い面を出し合うことで、何か協力的な雰囲気を生み出してほしいのです。」

 私は、そう、この若い社員たちに伝えた。

 その時以来、この会社では、定期的に集まってテーマを決めて仕事の話し合いをするほか、必ず毎回、ほかの社員を褒め合うということをスケジュールに入れたという。そしてそれだけで、会社の協力的な雰囲気、また、忌憚なくものを言える雰囲気がぐっと高まったという。

 日本人の自己肯定感が低いといわれる。若い者は黙っていろ、大人社会は厳しいものだ、他人の気持ちを推し量れ、空気を読め、謙譲になれ、生意気言うな、、、などなどの脅しの言葉を何度聞かされて日本の若者たちは成長してきているのだろう?自己肯定感が育たないのも無理はない、と思う。自己肯定感を本当に育てたいのならば、必要のないルールを一度外してみることだ。ルールを守らなくてはならない若者たち自身に、自分たちでルールを作るように促すとよい。そして何よりも、お互いに、お互いの良さをどこかに見出す努力をし、それを指摘し合い、他者を肯定する努力を促してみることだと思う。 信頼できる関係を、信じられない目に見えないものであっても、敢えて信頼し合う関係を作っていくことだと思う。

 日本には「謙虚」「謙譲」という言葉があった。それは、日本人の美しい徳の一つだと思っている人は少なくないと思う。だが、「謙虚」も「謙譲」も、一つ間違えば、責任逃れの甘えに転倒してしまう。それは、「謙虚」ぶっている側にも、それを他人に強いる側にも言えることだ。
 思っていることを堂々ということ、反対されることが分かっていてもあえて自分の考え・生き方を示していくことのほうが、はるかに厳しく難しい。しかしそれでも、その方が、自分の生を自分でコントロールしている、自分は自分の人生を自分自身でデザインしながら生きている、という実感をはるかに豊かに与えてくれる。

2008/11/18

殻を破る、、、「らしさ」からの自由

 よいのか、悪いのかはわからない。ただ、他人の期待通り、予想通りに行動することがいやだった。あまのじゃくというだけのことだ。いつの頃からなのかはよくわからない。何か、自分が外から想像されている人々の予想を「裏切って」行動する、そうすることで「えっ」とか「はっ」という表情が相手に瞬間に見え、それがその人との少し立ち入ったコミュニケーションのきっかけになる、というかかわり方が、いつの間にか知らず知らずのうちに自分の中に育って来ていたようだ。

 男の兄弟がいなかったから「女の子なのだから」という縛りを受けずに育った。「女らしく」という役割期待がわたしには初めからなかった。
 大学にいたころ、特に、大学院に進んだころは「研究者の卵」という外からの役割期待と、自身の現実のギャップに耐えかねて、とうとう、そういう肩書から逃げ出してしまったのだと思う。
 外国に暮らし「日本人だからきっと」といわれる視線を感じるようになると、「普通のありきたりの日本人」として振る舞うことを意識して避けてきた。

 「主婦」であるという以外、何の仕事もできなかった長い年月、どうしたら普通の主婦でない主婦になれるかを考えていた。そういう、他人が見たらつまらぬことにエネルギーを注いでいたようにも思う。同じことは「母親」という立場になってもそうだった。子どもたちに、母親らしくない母親、既成の母親像にとらわれない母親になることで、彼らにとってほかには例のないユニークな、彼らだけの母親になりたい、と考えてきた。

 人に言えば笑われるようなこだわりだったと思う。実は、こだわりというほどの自覚は自分にもなく、ほとんど習性のようにそういう行動を選んできた。性格なのだろうと思う。でも、やっとこの頃になって、自分は、ただただ世間というものが漠然とこちらにむけて期待をかけてくる「らしさ」から、自分自身を解放して生きていたかったのだな、と思い至った。

 同時に、思い返してみると、私にとって大事な人たちと出会いのほとんどは、そういう相手の無意識の期待を裏切るような私の言葉や態度に「はっ」としてくれるその瞬間から生まれてきたものがほとんどではなかったか、という気がする。そして、それらの出会いは、そういうものであっただけに、いつも、日本人であるとか、外国人であるということが、はじめに邪魔をしない関係の始まりだったことが何より幸いだった。

 お互いに、「らしさ」というような役割期待にとらわれることなく関われることの嬉しさ。人と人との心の出会いは、そういうことから始まるのではないか、と思う。

 それでもつい最近まで「殻を破れ」と言われることがあった。「らしさ」から逃げ出してはきたものの、自分はそれでもそうやって自分とは違う自分を演じたり自分自身を防衛してきたのかな、と思う。あるがままの自分に心地よくしていられるというのは一通りの易しさではできないものだ。
 「らしさ」や「殻」は、自信を失っているとき、自分自身に迷っている時にひょいと顔を出してくる。

狂気と月並みの間

 世の中の変革というのは、狂気と月並みの間で社会の行方を追う人の頭から生まれるのではないかと思う。変革を求める意識は、現状の問題を並べ不平不満を述べ立てるだけで容易く広がる。しかし、そうして眼の前に並べられる問題を乗り越え、求められる変革を具体的な像として描ける人は本当に数少ない。それができるためには、歴史を読み、現在の人々の立ち位置を外から客観的に眺め、経験としてではなく、先験的に未来の社会の行くえについて、いくつもの可能な選択肢に思いをめぐらす洞察の力が必要だ。

 バブル期以後の日本の出版界や新聞などのジャーナリズムでは、知らず知らずのうちに大衆の好みを追い、大衆が喜びそうな話題を提供して、情報というほどの価値もない手垢のついた印刷物を売って稼ぐものが主流になってきたのではなかっただろうか。特に、バブルに加えて、インターネットの普及で、人々が活字から離れれば離れるほど、紙に書かれる印刷物を勝負とする出版界の人々は、確実に「売れる」テーマや話題で資金稼ぎを迫られ、意図的にブームをつくり、自分で作ったブームの中で、後追いジャーナリズムと後追い研究を蔓延させることになって来たのではないか、と思う。

 しかし最近、日本のジャーナリズムが、少し、変わり始めているのではないか、という気がする。少なくとも、漫然と大衆に追随するのではなく、何か、より意識の高い読者の求めているものを提供するために、方向のある話題を生んでいく必要を、以前に比べてより強く感じているように思われる。 一般に活字のものが読まれなくなっていく中で、いよいよ、オピニオン形成ということこそが、ジャーナリズムの使命であるということを再認し始めているのかもしれない。

 社会の変革は、その社会の周縁の部分からおこると信じている。大多数の意見を後追いして漫然と大通りの真ん中を歩いていくような人々からは変革の力は生まれない。ジャーナリズムの役割は、周縁部分に立ち位置を定めて、小さくとも展望のある声にチャンスを与えるための場を与えることだ。

 変革は、たとえ9割ほどの人々が考え、同意するような考えがあったとしても、その中からは生まれないのではないか。意表を突く意外性、大半の人々が気づかなかったアングルから、日常見慣れて気付きもしなかった現象、見過ごしてきた些細なものに新たな光を当てるときに、新しい考えが生まれ、それが人々の意欲や動機付けを引き出し、変革へと導いていくような気がする。

 けれども、だからといって、狂気といえるほどの意外性は、かえって月並みな人々を必要以上に熱狂させ、独善やカリスマを生み、やがては、人気取りの政治と無批判な追随に身を任せる大衆行動を社会の中に増長し、最終的にはその社会を破壊に導くことだろう。

 月並みに陥らず、しかも、狂気の沙汰に走らない、言い換えれば、大衆の人気に惑わされず、かといって自己満足と自意識過剰に陥らない微妙なバランスのある生き方をあえて選ぶもの、月並みと狂気の間の危うい緊張の中に身を任せ考えて耐え続けるものが、きっと未来の社会を切り開き導いていく役割を負っていくのだ、と思う。

2008/11/06

愛国から世界協調へ

 バラク・オバマが大統領に選ばれてほっとした。アメリカ大国主義の傲慢を絵にかいたようなブッシュ政権には、世界中が嫌気をさしていた。オバマの当選を歓迎する諸外国からの声も、また、彼に投票したアメリカの市民たちも、アメリカ合衆国内および国外で、異文化の相違を超えて、人々が協調し合う時代に合わせた新しい政治を望んでいるのだろう。

 アフリカ出身の父と白人の母親の血をひいているオバマの存在そのものが、それを象徴している。
 文化(culture)の差は、人々が住む風土・自然環境・社会条件などから生まれ作られてくる。しかし、人間の本来持った自然(nature)の質は同じだ。皆、自分自身の頭と心で納得しなければ、健康な精神を保って生きていくことの出来ない存在なのだ。文化や宗教によって規定されたお互いの意見や感情をすり合わせ、人類として、協調して生きていく時代が、また、その必要を、人々が実感として感じ取る時代がやってきただ、と思う。

 オランダでも、つい先ごろ、ヨーロッパ随一の貿易港のあるロッテルダム市の市長に、イスラム系移民の政治家が指名された。ロッテルダムといえば、オランダの古い町。港湾労働者をはじめ、労働者の多い街でもある。しかも、60年代以降増え続けたトルコ、モロッコ、スリナムなどからの移民労働者が多く住む街だ。産業グロバリゼーションの進行によって、少ないとはいえ経済格差が広がり始めたオランダで、オランダ人と移民の、両方の労働者たちは、パイの取り分を、分け合わなくてはならない存在として、いがみ合い、憎しみ合うという構造が生まれていた。2000年ごろからオランダにも生まれた、外国人排斥の雰囲気も、ロッテルダムの市議会で当時勝利したピム・フォルテウン党の反動性に由来している。

 そんな中で、ロッテルダムの市議会は、労働党が中心となり、これまで、移民たちの同化に力を尽くしてきたアハメッド・アブタレブ氏を市長に指名した。16歳でモロッコからやってきた移民だ。彼が、来年以降、市長として、この市の市民たちの間にどんな橋渡しをしていくのか、大変興味深い。

 世界は、異文化交流の時代へと進み始めた。土着と移民とにかかわらず、すべて人は平等の権利を持った世界市民の時代がやって来た。

 さて、日本は???

 日系ブラジル移民、東南アジアからの労働者など、増え続ける移民に対して、果たして、どれほど人権問題に敏感に取り組んでいるだろうか。いじめ、引きこもり、など、日本人の子供にすら、人間としての待遇をきちんと保障できないでいる日本社会が、これらの在留外国人に対して、正当な待遇をしているとは考えにくい。
 もっと怖いのは、やがて、こうした、外国人は、日本の待遇に嫌気をさして、自国やほかに国に行ってしまうのではないか、ということだ。

 本来、外国人ほど、それぞれの文化を相対視できる人はいない。世界地図を頭に描いて、一国の政治というものを見ている人たちだ。彼らの頭にこそ、今の日本の弱点は、明瞭な形で描かれているのに違いない。そういう人たちを日本社会の中に統合し、ともに議論していくことで、どれだけ、日本にとって豊かなヒントが得られるか計り知れない。

 けれども、そういう視点に、日本はまだ全体として立ち得ていないようだ。

 アメリカ合衆国では、ブッシュが山ほどの問題を残して、オバマに政権を渡すことになった。これらの問題の解決から取り組まなくてはならない新しいオバマ政権は、大変大きな挑戦を突き付けられていると思う。しかし、選挙戦を見る限り、そこには、声を上げ、時間や労力を尽くしてでも応援しようという市民の姿があった。彼らが、ともに、社会参加の意欲を持つ限り、アメリカにはまだまだ希望があると思う。

 日本は、もう何年間も、さまざまの社会問題を棚上げにしたままだ。しかも、そうした社会問題に対して、政治家も無策だし、行政者たちも責任逃れをし、専門家の多くは自分の名声にこだわっている。そして、集まって共に働けばこれほど大きな力はないと思われる市民自身が、自分の力で、世の中を変えようという意欲を失ってしまっている。何をするにも、カネのためにしか動かない人々ばかりになってしまっている。自分の人生を、自分の生き方を、一体いつまで、他人に預けておくつもりなのだろう?

「自分はこう生きたい」という内からの声を持たないものに、他の人の生は理解できないだろう。喜びや痛みは自分が体験してこそわかるものだ。

 何でもいいから一歩踏み出してみてほしい。自分がいまどんな環境にあって、誰と関わっているのか、自分にできることは何なのか、大げさなことはいらない。

 他人は反対するものだ。そこでくじけないでほしい。信じていることは、相手を説き伏せてでも説明してほしい。相手の中にある、何か、共通のものを見出してほしい。そこから、協調が始まる。世界協調もまた、お互いの利害を意識した駆け引きの中で、有難い共通点を丹念に探し出していくことからしか始まらない。
 

2008/11/03

三周遅れのニッポン

 世界金融危機のおかげで、ひょっとしたら、教育や医療、年金問題などの公共政策が、またしても後回しになるのではないか、という危機感がある。特に、もうこれ以上フリーターも、不登校も、いじめも、自殺も、一人暮らしの老人も、孤独死も、引きこもり、ホームレスも経済格差も増やせない日本は、今度の金融危機による一層の経済困窮にどう対応していくつもりなのだろうか、と思う。これからもっと人々が苦しみ、もっと家庭や地域社会が崩れ、もっと猟奇的な事件が起きるのだろうか。

 金融危機対策に関しては、アメリカが大統領選に縺れこんでまごまごしたのに対して、ヨーロッパの対応は、それなりにスムーズに行った。それは、ヨーロッパが、多様な価値意識の共存、多元的なリーダーシップを、積極的に評価し取り入れ、多者共存の政治・経済体制を、戦後静かに積み上げて来ていたからだと思う。そして、それは、二つの大戦を起こし、多くの犠牲者を生んだヨーロッパになくてはならぬ、ほかに選択肢のない道だった。

 ヨーロッパの社会と日本社会を見ていると、これまで、私は、日本のほうが、ヨーロッパに比べて、文明の発展という点では、二周遅れている、と思っていた。一周目は「近代」というものの理解について、また、二周目は、機会の均等・市民による多元的な価値観を受容という点についてだ。
 一周目は、宗教革命以後啓蒙主義の発達とともに起こったヨーロッパの近代思想だ。時間的にも、背景としての価値意識においても非常に懸隔のある日本では、そこに追いつこうと思い立ったのが、やっと一九世紀後半のことだ。上滑りの大正デモクラシー、そして、戦後のアメリカのパタナリズムによる民主化は、「民主」とは口先だけのことで、民不在の、理屈だけの近代だった。そして、その状態は今も続いているし、それほどに長い間軽視されてきた「民」には、もう言上げしようという意欲もなくなってしまったかにみえる。

 二周目の機会均等意識と市民参加の政治については、欧米には、なくてはならない六〇年代の意識変革があった。それは、戦前の古い価値観で生きる親の世代に対する若者たちの反発として起こった。冷戦対立の緊張、核戦争勃発への危機感がその背景にあった。そして、それは、一周目における近代意識が人々の価値意識のベースにあったからこそ起こったことだ。
 カネや権力ではなく、人間性そのものを容認し、既成の価値観にがんじがらめになった世代に対しタブーを突き破っていく意識だった。近代主義の本質としての「人間性」の尊重、「良心の自由」とはそもそも何であるのか、ということを徹底して突き詰めた時代だ。

 しかし日本は、この時、経済成長の真っただ中、そして、冷戦体制の中では、完全にアメリカの属国として行為していた。だから、若者に危機感はなく、当時の教育、特に七〇年代以降の学校教育には、時事論争は皆無・無縁となっていった。

 今、金融危機とその後の動きを見ていてつくづく感じるのは、経済や産業グロバリゼーションの終焉、ということだ。そういう意味では、よかった、と思う。自由市場体制が、すべてを自浄していくという楽観が今度の危機を生んだ。多くの銀行に、国のテコ入れが必要となった。レーガンやサッチャーの時代には民営化が大流行だったが、今度は、それが、逆に国営化されている。けれども、この国営化は一時的なもので、決して、反動や逆行ではない。自由市場が「健全に」機能するための監督者としての役割を、これからの国は背負っていくしかない。そういう議論が今ヨーロッパではなされている。そもそも、国などというものは、民から離れて「実体」として何かがあるというようなものではなく、民によって築かれた「公」であるべきなのだ。そこが、日本ではいまだに理解されていない。こういう議論は、もう何十年も言われ続けているというのに、、、だ。

 今回の危機では、人々が、それも、経済界の専門家だとか、政治家だとかだけではなくて、一般の市民、小規模の投資家、年金積立者などが、自由市場経済の落とし穴に、大挙して気付いたのだ。文明史上の画期的な出来事だと思う。国がテコ入れするといったって、結局は、国民の税金だ。国は、大枚をはたいて、経営のずさんな金融機関の尻拭いをするのならば、もっとしっかり監督せよ、という話になっていく。 民が関与する監督、民のための監督、ということが、今回のことで、どれだけ日本人に伝わったのか、、、立場の違う知識人を集めて徹底的に議論をさせるような番組、新聞がない日本は、本当に危ない。

 何のための税金、何のための監督、ということが、市民一人ひとりの意識に上ってきていると思う。

 だから、この問題を、共和党と民主党の政治論争にすり替えたアメリカよりも、ヨーロッパの首脳や中央銀行総裁らの、知恵を集めた対策のほうが、はるかに先進的で、世界史に一ページを刻むような動きだったと思う。
 市民がともに、国の役割をどう規定していくのか、国境を超えた国家間の共同、多国籍企業の動きに対して、市民はどう影響を与えることができるのか、、、ヨーロッパは、いま、確実に第三周目を走り始めている。

 日本はといえば、この三周のいずれもに、大幅に遅れをとっている。一周目の理解ができていないことが、二周目の理解を遅れさせ、それらがまた、三周目で、大幅な遅れを生んでいるように思えてならない。

 「日本は」と言った。「日本という国は」というつもりだ。なぜなら、日本にもまたそういうことに気付いている人たちが数は少なくても確実にいると思っているからだ。

 では、どうしたらいいのか、、、、三周の遅れを一気に取り返すにはどうすればいいのか、、、、

 「世界人権宣言」や「子どもの権利条約」を字義どおりに、たてまえでなく本気で実現してみることだ。法律というものの重さを、本気で議論してみることだ。人間の根本問題はそこに集約されている。法律を、「あれは建前で、、、」などと言っている間、人間の最も大きな落とし穴である<傲慢><強欲>が、社会を蝕んでいく。日本のリーダーたちはあまりにも長く、人間にはそういう醜さがあるのだということに目をつぶり続け過ぎてきた。外国人相手にテロ対策をやるのなら、まず、国内の暴力団を一掃することからはじめるべきだ。


 日本のように、西洋型の近代化を達成できなかった国は、世界に数多い。むしろそのほうがはるかに多い。その中でみると、日本は、ある意味では、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの開発途上国では比べ物にならないくらい、近代意識を理論として理解している人たちがたくさんいる国だと思う。だからこそ、マス・メディア、各界の専門家などのリーダーの活躍に、今こそ期待したい。

 遅れた近代化・産業化によってお茶を濁した疑似近代というゆがみやいびつさが生む社会問題は、必ずや、近い将来、中国、インド、など様々の国で露呈してくると思う。上からの指導、産業優先の競争主義の近代化は、必ず、社会不安を生む。その時までに、もしも日本が、今直面している問題を賢く乗り越える道を描けていたら、それは、他国にとって有用なモデルになるだろう。

かつて、スウェーデンやオランダが、モデル国としての誇りをもったように、日本にも是非そうなってほしい。


 

2008/10/30

文化的鎖国

オランダ人の夫と知り合ったばかりの頃、お互いの考えの擦れ違いを感じるたびに、私はよく「日本っていうのはね」「日本人っていうのはね」と、よくわかりもしないくせに、中根千枝の「タテ社会の構造」だの土居健郎の「甘えの構造」だの丸山真男の「日本の思想」だのを頭に思い浮かべながら、日本社会論や日本人論を並べて見せたものだった。
それは、そういう私に、ほどなく夫がこういうコメントをくれるまでつづいた。

「日本人っていうのは、どうして、そういう日本論だの日本人論が好きなんだい?オランダでは、だれも、オランダ人論やオランダ論なんてやらないよ」

目から鱗とはこのことだった。

日本人論、日本論に血眼になっている自分たち自身が、どれだけ自意識過剰になって、日本にこだわっているか、ということを、その時つくづく思い知った気がした。そして、以後、そういう類の本を読む気がしなくなった。自分の行動の言い訳をするのに、「日本人論」や「日本論」を持ち出してくるばかばかしさがよくわかった。自分は、日本人である前に、自分そのものではないか、という押しの強さこそが、オランダ人の夫に教えてもらったオランダの文化に発する考え方だった。

だから、「国家の品格」も「美しい日本」も、もういい加減でそういうレベルの話はやめようよ、といいたい。それが正直な気持ちだ。

気になることがある。かなり深刻に気になっている。

日本では、なぜか、世界中で、そしてそのためオランダでも翻訳されて売れているベストセラーが売れていない、知られてもいないことがよくあるのだ。

最近目立っていたのは、Carlos Ruiz Zafonが書いたThe Shadow of the WindとKhaled Hosseiniが書いたThe Kite Runnerだ。どちらもフィクションだが、それぞれ、スペインの独裁政権時代のバルセロナ、ソ連軍が侵攻してきた頃のアフガニスタンを舞台にしており、読者を食い入るように読ませる力のある文芸だ。人により好みはあろうが、私は、両方とも大いに楽しんで読んだし、世界中でベストセラー、ロングセラーになっただけのことはあると十分に納得できる。

前者は、この3,4年平積みになったままずっと売れ続けているし、後者は、映画化されたうえ、主人公になって登場したアフガニスタンの少年二人が、映画出演を理由に政治的な脅威にさらされ国外に移住を余儀なくされたことでも話題になった。話題の本だけあって、映画のほうも、大変注目されていたし、実際、それなりに、かなりよくできた映画だったと思う。

不思議なのは、なぜ、こんなにも世界で注目されている本が、日本では翻訳されないのか、ということだ。

ヨーロッパでは知らぬ人はいないというくらいよく知られたコミックシリーズに、「アステリックスとオべリックス」というのがある。下敷きは、ヨーロッパのエリートたちが、ラテン語を習う時に必ず読むガリア戦記だ。ガリア戦記のエピソードを、面白おかしく脚色しているので、もともとの古典を知っている大人なら、その面白さが言葉の端々に見られて楽しめる、ちょっとインテリ向けのコミックだ。パリ郊外にはテーマパークがあり、これも、何度か映画化されている。

なぜこんなに有名なコミックが、日本では知られていないのだろう、と少し探してみたら、20年くらい前に、シリーズのうちの1,2冊が試みに翻訳され出版された形跡があった。だが、どうやらあまり売れなかったらしい。

ヨーロッパ人の生活感覚と日本人のそれが違うからかもしれない。しかし、こんなことをいつまでも続けていれば、いつまでたっても両者の生活感覚、世界観は歩み寄ることはないだろうと思う。バックグラウンドが違うから、関心が違う、関心が違うから、訳したところで売れそうもない。出版社の立場から言えば、いくらベストセラーでも、売れそうにないものにカネはかけられない、という事情もあるのかもしれない。

そうなれば、日本人が孤立しないための、もはや唯一の方法は、日本語文化を抜け出すことしかない、と思う。歯がゆくとも悔しくとも、英語を第二言語にするくらいの覚悟がなければ、世界の人々が今何に注目し、何を話題にしているのかに日本人がついていくことは不可能だ。世界感覚でグローバルにモノを考えていきたいのならば、出版社が翻訳書を出してくれるまで指をくわえて待っているひまはないと思う。

黒子の時代

ホクロの話ではない。クロコのことだ。

金融危機で揺れる世界。アメリカのウォール街で起こった今回の金融危機は、その後、アメリカでは、2党対立という形で完全に分極化した大統領選に絡んで、政治論争のレベルにもつれこみ対策が手間取ったのに比べて、ヨーロッパの対応は比較的迅速に進んだ。
むろん、ヨーロッパでも、当初は、各国の首相や大統領、各国の中央銀行の総裁たちの間の駆け引き、隣国の金融機関に対する不利な発言など、少なからぬ摩擦と緊張はあった。しかし、そこは、ヨーロッパ。これまでのヨーロッパ統合にまつわる様々の課題に解決策を求める議論でも、こういうことは始終経験してきたことだ。そして、なんとか、ヨーロッパの立場を絞り出してきた。まずは、国家としての利害をお互いに出し合い、それから、痛みを感じつつもそれらをすり合わせ、どこかに妥協点を見つけていく、というやり方は、すでに、ヨーロッパ連合の政治文化になっている。そういう、面倒だが、とにかく前向きに統合を進めるというやり方が、わずか半世紀の間に、紛争で多数の犠牲者を出したヨーロッパから、27カ国にも及ぶ多数の国が同じ規則のもとで、同じ議会で話し合い、解放された経済市場で取引をする関係になった。

多文化共生、多頭の共存は、ヨーロッパでは、いまや否定しがたい一つの文化だ。だからこそ、ヨーロッパ統合の実験は、未来の世界のあり方を考えるにあたって、競争市場型のアメリカよりもはるかに参考になる。

多文化共生という意味では、ヨーロッパよりも、アジアのほうがはるかにその多様性は大きい。これから、中国・インド・日本など、文化も政治体制も社会意識も、互いに非常に異なる国々が、アジアのブロックを形成していくうえで、ヨーロッパのモデルは大いに参考になるし、もしも成功裏に進めることができるならば、それは、ヨーロッパにおける統合よりも、もっと挑戦的で、成功すれば素晴らしい政治的実験になるのではないか、と思う。

ただし、アジアが内在的に持っていないのは、権威主義からの逸脱という意味での啓蒙の伝統だ。アジアでは、どの国も、いろいろな形で、伝統的で権威主義的な、ヨコの関係よりもタテの関係を重視するピラミッド型の社会をもっている。多文化共生の推進のためには、まず、それぞれの国で、権威的なタテ社会を打ち破り、すべての人間の平等や表現・良心の自由への確信を持つことが必要だ。そうでなくては、横並びの、多文化共生、多頭の共存という図式につながっていかない。仏教やヒンズー教など、唯一神ではない、多神教や汎神論的なアニミズム信仰が持っている寛容が、もしかすると、アジア的な多文化共生に道を開いていくのかもしれない、、、

それはともかく、、、
金融危機の議論沸騰が少し一段落した感のあった先週末、オランダの新聞紙上では、ヨーロッパを舞台に活躍する著名な政治リーダーや経済界のリーダーを招いて行われた討論会の様子がそのまま掲載されていた。

タブロイド版の新聞にぎっしり2ページ余りに及ぶ討論会だったが、その中である時、司会が「ところで、これからヨーロッパにおいて求められるリーダーの資質とは一体何なのでしょう?」と問いかけたのに対し、ある政治リーダーが「スクリーンの後ろで動ける人」と答え、これを受けて経済界のリーダーが「人と人を結びつける力を持つリーダー」というようなことを付け加えていたのがなにより印象に残った。

グロバリゼーションの時代は、カネカネカネの時代、欲望と権力の時代だった。アメリカ社会に代表される、立身出世型、一生懸命働いて、他人を押しのけてのしあがる能力のあるもの、そういう人がスターダムにのし上がり、カリスマとして大衆に影響を与える時代は、グロバリゼーションの終焉とともに次第に時代遅れになり姿を消していくのではないか、と思う。

これからの時代は「協働」の時代だ。自分の利点と相手の利点を出し合い補い合って、ソロプレーではできないことを、複数の人間の能力を提供し合って生み出していく時代であると思う。共同は、異文化間において、何よりも求められるだろう。

問題は、だからこそ、こちらの何者かとあちらの何者かを結びつける才能をもった黒子たちの暗躍なのだと思う。暗躍といえば聞こえが悪い、、、むしろ、名声を得なくても、スターダムにのし上がらなくとも、必要な人材とそれらの人材の持っている力を後ろから観察し、必要な形で結びつけていく才能を持った人こそが、今後どれだけ重要な役割を負うか、ということだ。

私が親しくしているオランダ人の教育専門家は、「良い教師は、できるだけ舞台の上に上がらない、人の表に立たない舞台演劇のディレクターのようなものだ」と言った。子どもの一人ひとりの能力を引き出し、お互いが学び合え、尊重し合えるようにし、それを通じて、複数の人の力によって何かを生み出す経験を子供たちにさせること、そのためには、教師自身が、権威ある存在として、子供たちを差し置いて前にしゃしゃり出ていくべきではない、といっているだ。

人と人とを結合させる力をもった影のリーダーということと、一脈通じるところが大いにあると思う。

実際、全体の動きが一番見えていて、人を掌の上で動かせるのは、だれからも振り返られることなく、それだけに、感情に振り回されずに、冷静に、かつ、理性的に物事を判断する時間と場を与えられた、スクリーンの後ろにいる黒子たちではないかと思う。

カリスマの時代は、カリスマ自身も、また、それを熱狂的に支えるひとびとの心にも、理性よりも感情が先立っていた。そういう社会は不気味で危険だ。

そして、これからの黒子には、異文化摩擦を超える力が何より必要であると思う。

願わくば、日本のマスメディアも、大衆と一緒になって目立ちたがりのカリスマだけに注目するのではなく、目立たぬところで賢い動きをしているたくさんの優れた黒子たちの動きをこそ見つめていてほしい。

2008/10/23

遊ぶ

「なに、そんなに深刻にならずに、遊んで来ればいいんですよ」

マレーシアへの留学が決まり、いよいよ数ヵ月後に出発という時、急に不安になった。まじめに勉強してきたわけでもないのに、留学なんておこがましい、、などと、それまで、何年間もチャンスを狙ってきて、やっと念願かなった留学が、自分には身分不相応なものに思えてきたのだ。今どきの若い人たちなら、留学など珍しいことでもなく、きっと笑うに違いない。

「やっぱり奨学金は辞退しようかと思います」などと、自分自身では殊勝なつもりで、指導教官のところに話に行ったのは、今思い返すとずいぶん甘えていたな、と思う。

口数の少ないその先生が、その時、やさしく目を細めてフフンと笑いながら、たった一言、私に言われたのが冒頭の言葉だった。それですっかり肩の荷が下りた。

それから2年間にわたる留学の間、留学の研究テーマなどには一切かかわらず、せっせせっせと見たこと聞いたこと感じたことを文章に綴り、この先生に書き送り続けた。この先生が実際に目に見えないことを、私が、どれだけ文章の力で伝えられるか、そういう挑戦を自分自身に課していた様に思う。本当に、自分は、上手に遊べているだろうか、と試しているような気分でもあった。

遊ぶ、とはいろいろに解せる言葉だなと思う。

フィールド調査では、自分がその場の人と同じ所に立って一緒に遊ぶくらいの気持ちがあると相手も心を開いてくれる。「見てやろう、調べてやろう」などと構えていると相手の心は開かない。

遊び心があれば、自分自身を客観視することもできるようになる。物事に対して、相対的に眺めよう、という気持ちになれる。

遊びの気分でいると、人生が少し楽になるような気もする。他の人との仕事がしやすくなる。「どうせ遊びじゃあないか」という気分が、相手にも自分にも過剰な期待を産まないから、やさしくなれるのかもしれない。

ところが、時々、心に余裕がなくなり、この気分を忘れてしまう。そして、きりきりがりがりと自分の殻の中に閉じこもり、自分自身が周りのだれよりも小さく貧しいものに見えてしまったり、また、逆に、周りの人すべてがどうしようもなくひどい存在に見えたりする。一人で落ち込んだり、他人に厳しくなってしまったりする。

遊ぶ、というのは、たぶん、前向きに、そして、他の人をそれなりに受け入れて生きていくために、なくてはならない心のゆとりなのだろう。 ゆとりを持つということは、何と難しいことだろう、とも思う。


この一言を私に下さった先生は、わたしが留学から帰ってきていきなり「オランダ人と結婚します」といった時も、泰然そのもの、これまた、フフンと笑って「そうですか」の一言だった。日本で挙げた結婚式に出席してもらったが、式後、大学関係者だけで二次会があったと後で聞いた。その場で先生は「彼女は、きっと何か大きなことをしますよ、いつか必ず」と言われた、とその場にいたある人が後になって教えてくれた。ドキッとし、ずしんと重い課題を課された気がした。

それから二五年の歳月が流れた。
仕事には就かず、夫について、アフリカ、ラテンアメリカの地を転々とし、ただただ普通に出産、育児、掃除、洗濯、炊事の日々を送った。
「何かやらねば、何かやらねば」という気持ちだけが先に立って、何もできない、先の見えない日々が続いた。

やっとオランダを拠点にヨーロッパで生活を始めることができるようになり、子どもたちも大学生となって手を離れてきて、ようやく、何か自分にしかできないことがあるのではないか、と少しずつ見えてきたような気がする。

目の前のことで精いっぱいだった間も、「いつの日かきっと」と思い続けることができたのは、この先生の「遊んでいればいいんですよ」の一言があったからではないか、と思う。そして、人づてに「いつか必ず、、、」といわれた先生の言葉は、宿題とも励ましとも聞こえながら、今も、心に鳴り響き続けている。

2008/10/22

移民の底力

 オランダにいると「移民」(Alloctoon)という言葉をよく耳にする。それほど、移民同化の問題が、この国では論争の的になっているということだ。
 
 ところで、うちの家族で、夫だけは、れっきとしたオランダ人だが、娘と息子、そして、私は、「移民」なのか「外国人」なのか、という話がある。オランダが正規の統計を取る際に「移民」と定義しているのは、「本人か、親のうちの少なくとも一方がオランダ以外の国で生まれたもの」となっている。だから、日本人の母親を持っているうちの息子や娘も「移民」ということになる。オランダ王室の一族も、現ベアトリクス女王、前ユリアナ女王も、ともに夫君はドイツ生まれだったし、次期国王の予定のアレキサンダー皇太子も奥さんはアルゼンチン人、したがって、王室はほぼ全員「移民」だ。

 ただ、「移民」という以上、そこに根を張って暮らしているということが前提になる。

 私は、「移民」なのだろうか、それとも単なる「外国人」なのだろうか。

 長い海外生活で、いろいろなたくましい移民に出会ってきた。

 留学していたマレーシアで下宿したのは、元は、スリランカから来たヒンズー系タミール人の移民の一家だった。ご主人は、父親とともに来住した第1世代、奥さんのほうは、両親が移住してきた第2世代だった。私が下宿をしていた当時は、ちょうど二人の息子をイギリスに留学させていたころで、インド産の食材を中心とした雑貨店を営み、それに加えて、私ともう一人のインド人女性を下宿させ、その収入で、自分たちの生活と子供二人の学費を賄っていた。

 そのころのカンダヤ夫婦の生活といえば、贅沢をしない質実剛健そのもので、毎日決まった時間にキチンと磨き上げられた家の中には、埃一つなく、毎週火曜日には、家の中のすべての衣類・シーツを集め、白物は、すべて、裏庭にしつらえた焚火の上の大釜で煮沸消毒されていた。毎日の食事は、香料を石臼ですりつぶすところから、すべて一切の食料を原料から自分で料理して作っていた。

 雑貨店は、昼間は、御主人と丁稚奉公のラジャという男の子が店番をし、夕方になると、家事を終えてシャワーを浴び、さっぱりと洗いあげたサリーに身を包んだカンダヤ夫人が、店番を交代しに出かけていた。店に出る前には、必ず、家じゅうをお線香の煙で炊き締め、門口に座ってヒンズー教の讃美歌を歌うのが習慣だった。 ラジャのためには、給料のほかに、将来独立したときのためにと少額の貯金を続けていた。ラジャの家族に問題があれば、一緒に解決策を考えてやる。アルコール中毒の母親から守るために、弟を引き取っていたこともあった。

 毎日判で押したような生活で、娯楽といえば、水曜日の夜にある、延々3時間以上も続くインド映画をテレビで見ることくらい、贅沢とはいっさい縁のない暮らしだった。

 そのカンダヤ夫妻も、数年前にご主人が亡くなった。二人の息子は、オーストラリアに移住していき、そこでそれぞれ一家を構えた。マレー人が何事にも優先されるマレーシアでは、二人の将来はなかった。
 2年前、オランダに住む妹を訪ねてきたと言って、25年ぶりに私に会いに来てくれた。70を過ぎたカンダヤ夫人が、さっぱりとジーンズとTシャツ、野球帽をかぶって颯爽と門口に現れたのには驚いた。これが、あの頃、サリーを風になびかせてエレガントに歩いていた彼女か、と目を疑った。
 だが、心の中は今も同じ。夫が亡くなり、子どもたちがオーストラリアに移住していった後、大学病院で、ホスピスの患者を訪ねるボランティアをしている。図書館から本を借りて、ホスピスの患者のところに言って読んでやっているともいう。毎年一度はインドに行き、1か月を孤児院のボランティアで過ごす。孤児院への寄付を集めるために、マレーシアに帰ると、昔馴染みの中国人の知り合いに声をかけて、いろいろな人から募金を集めてくるという。
「直子、いいお母さんになったわね。うーん、このカレーなかなかいけるわよ。」とほめてくれる。
ふっとリビングルームを見渡しているカンダヤ夫人を見て、「どこにも埃を残してなかったかな」と背筋がひんやりしてしまう。
「直子、一度帰っておいでよマレーシアに。ラジャも待っているわよ。直子がいた時とはすっかり様がわりしたんだから、、、早く来ないと私死んじゃうよ」と優しい。

 カンダヤ家のような移民家族はマレーシアには多い。親が贅沢を惜しんで、子どもの教育にカネをかけ、しかも、子どもたちを、厳しくしつけて育てる。とにもかくにも、どこに行っても恥ずかしくないだけの学歴を身に付けさせ、世界のどこにでも行って生きる場を見出してくれるならどこにいてもかまわない、と親元にとどまることなど期待もしていない。
 現に、カンダヤ夫人の姉妹やその子供たちは、そのころから、スウェーデン、オランダ、カナダ、オーストラリアなど世界中の国々に散って暮らしていた。私が、日本から来たことなど、彼女たちにとっては珍しいことでも何でもなかったし、生まれた時から、タミール語と英語と、仕方なくなく公用語のマレー語を使ってトリリンガルで生活することも、当たり前のことだった。
 「ウィル・パワー」がカンダヤ夫人の口癖だった。

 
 10数年前に買い取ったフランスの片田舎、過疎地にある農村の家は、私たちの留守中、その近くのジャム工場で夜警として働いているポルトガル人が時々様子を見てくれている。同じ村に、彼が自分で建てた家があり、時々、その村まで来てくれるからだ。
 ジョゼは、15歳の時に、独裁政権下にあったポルトガルから、両親とともにフランスに移住してきた。そのころすでに石工として修業をしており、結婚するまでは、その仕事していたようだ。フランスやスペイン、ポルトガルなど、南欧の国の家は、昔は、その土地の石を切り出し、それを積み上げて家を作った。だから、家づくりには、昔から石工と大工と屋根師がかかわる。

 結婚してから、ジョゼは、フランス一大きなジャム工場の夜警となった。工場のすぐそばの社宅に入り、夜は、講堂ほどもある大きさの冷蔵庫などが何基も立ち並ぶ工場の夜警をした。奥さんもポルトガルの移民だ。小柄な体で三人の子を産み育て、それから、近所の大型スーパーマーケットの店長の家で家政婦として働いた。
 ジョゼは、夜警を本業にしながら、昼間は半分の時間を休息に使い、残りの時間を使って、およそ20年の間に、3軒の家を建てた。1軒目の家が、私たちの家と同じ村にあったのだ。
 石工の経験を使って、自分で設計図を引き、ブロックを積み上げ、屋根を据えて、内装を整える。
 どの家も、働いてお金を貯めては材料を買い、少しずつ立てていく、という方式だから、数年はかかっている。3軒目の家は、さすがに、年を取って、しかもビール樽のようにお腹が出ていていたから体を動かすのが億劫になったか、細かい仕事は業者を入れてやらせていた。その分、資金も必要で、時間も余計にかかった。

 最後の家は自分たちのために建てたもので、数年かかって完成したら、社宅を引き払って移ってきた。自動車修理場の裏地という、あまり人が買いたがらない土地を安く買い取り、川辺の立地を利用して、井戸を掘り、地下水を汲み上げてフロアヒーティングにした。地下水は暖かいので光熱費が安くて済む。くみ上げた地下水は、大きな庭の半分を菜園にし、トマト、キウリ、インゲン豆、ブロッコリ、玉ねぎなどの作物の自給のために使う。畑にしみ込んだ水がまた地下水となってリサイクリングされる、という仕組みだ。庭に放し飼いの鶏から新鮮な卵もとれる。

 車が2台ゆうに入る大きなガレージに、長テーブルを据えて、ある夏の日、私たち一家をバーベキューパーティに招いてくれた。大きくなった娘たちが、母親を支えて食卓を準備し、ホストのジョゼは、ワインで気分が乗ってくると、まるで、イタリアのオペラ歌手かのように、満顔に笑みをたたえて、ご自慢の声で一曲披露してくれた。学歴があるわけでも、恵まれた家庭環境に生まれたわけでもない。たった一本の腕ひとつで、そして、働き者の奥さんにささえられて、すべての財を自力で作り上げてきた人だ。

 とにもかくにも、3軒の家を建て、今は、2軒を借家にして収入源にしているが、いずれは、3人の子供のそれぞれに譲るつもりなのだろう。

 カンダヤ夫妻やジョゼ一家のことを思うと、自分など「移民」などと呼ぶのはおこがましいな、と恥ずかしくなる。

 「移民」と呼ばれる人たちは、生まれた国からみると、時に「棄民」と呼ばれるほどの事態から押し出されてきた人たちであることが多い。自分の生まれた国の、指導者たちが、自分が生きられる場を取り去ってしまっていることさえある。カンダヤ氏などは、5歳で母親から引き離されてマレーシアにきた。家族と別れ別れになってでも、生きられる場所に行けたことが幸福だと思わずにはおれないというような境遇の人たちなのだ。この人たちにとって、外国に出ることは、「選択」ではなく、それしかないオプションだったのだ。異文化交流なんて悠長なことを言っている人たちではない。同化は賢い選択、同化できなければ、不幸覚悟の事態だ。

 私などには、当然、疑ったこともない「帰る場所」がこの人たちにはない。この人たちの底力は、私などには想像の域を超えている。

 やっぱり私は単なる「外国人」、外から眺めて言いたいことを言っているだけの甘えた「外国人」だなと思う。でも、時々、異国に暮らすことが鬱陶しくなったり、些細なことで落ち込んだりした時には、この人たちのことを思い出すようにしている。そうして、カンダヤ夫人やジョゼ一家の地に足の着いた生活態度を見て、「なんだ、これくらい」ともう一度元気をもらう。

 一人で暮らしていた母がクモ膜下出血で倒れた時、母は、自分で救急車を呼び、手に医者の従兄の電話番号を書いたメモを握りしめ、茶の間の床に数冊の本を重ねてそれを枕にし、横になって気を失ったという。間もなく救急車が駆けつけた時には意識はなく、病院に運ばれた時には瀕死の状態だった。
 従兄から連絡を受けて、私はすぐに帰国し、それから2週間後に母が亡くなるまで傍にいることができた。外国人と結婚して、その後の一生を外国に暮らすと決意した時に、父母の死に目には会えないかもしれない、と覚悟していただけに、こうして、母の最期に立ち会えたのは、天から授かった幸運というよりなかった。

 2週間を、母のその日までの暮らしが肌身に感じられる実家に寝泊まりして過ごした。帰りついた時、台所には、まだお茶っぱのぬれた急須や、洗いあげたばかりの茶碗と箸などが無造作に置かれ、仕事場の机には、書き続けていた万葉集の短歌が途中まで書かれて途切れた和紙があり、墨の残った硯に、母の号が入った小筆が凭せ掛けてあった。

 父が亡くなった後は、茶の間のロッキングチェアは母が愛用していた。卓袱台の上に、5ミリほどの厚さの単行本くらいの大きさの白表紙のメモ帳がおいてあった。それを開いてみると、母が、倒れた時に枕にしていた数冊の本の中から引き出した、お気に入りの言葉が、数ページにわたって母の文字で書き写されていた。 母を一人故郷に残していることを、いつも不甲斐なく思いながら何もできずにいた私には、こうして自分で自分の楽しみを見つけて生きていてくれたことに、ホッとするような思いだった。愚痴も不平も私に言うような人ではなかった。

 母は本が本当に好きな人だった。

 母方の祖父は、戦前、まだ、母が小学生の頃、町に仕事で出かけるのに、ある日母を伴い、近所の本屋にきて、母に、「すぐに戻ってくるから、ここで好きな本を選んでおきなさい」と言って出て行ったという。母は、それから、2,3冊の本を棚から選り出し、父親が返ってくるのを待っていた。祖父は、戻ると、母の選んだ本を見て、「これだけか、ほかに読みたい本はないのか、もっと取り出してこい」と促したという。恐る恐る本を引き出してくる母をゆったり眺めるともなく待ちながら、祖父には、いつまでたっても、「さあ、それじゃあ勘定をしてもらおうか」という気配がみえない。ようやく、両腕を伸ばし、顎で抑えてやっと抱えられるほどの本が積みあがったところで、祖父は、「よし、じゃあ行くか」と勘定を済ませて家路に就いた。どんな本を選んだのかとか、これはいいから読めなどとは、一切干渉しなかった。祖父も、家族に対して口数の少ない人だった。

 母は、その日のことが余程うれしい思い出だったのだろう。何十年もたってから、私に、それは懐かしそうにこの日の思い出話を聞かせてくれた。

 母は歴史小説が好きだった。書道を始めてからは、万葉集、古今・新古今集、源氏物語、紫式部や和泉式部の歌集、それらについての解説書、研究者たちのエッセイなどをよく読んだ。若いころから、小説に浸り、戦後間もなくは、フランス文学・ロシア文学にも傾倒していたようだ。韓国や中国の歴史書も好んで読んでいた。 趣味だった書や俳句が、やがて仕事として自分の収入につながるようになると、好きな書や俳人のものは、どんなに高い復刻版でも、惜しみなく買って手に入れていた。住まいや服にはほとんど興味がなかった。

 父と母の共通の趣味も読書だったと思う。
 一方が大部の小説を買ってきて読み始めると、もう一方が、横取りして我先にと読み始め、寝床で、サイドランプの明かりで朝方までかかって読みあげた、などという話をよくしていた。安普請の家の中には、全集の類がところ狭しと置かれていた。

 そんな父母からみると、私たち姉妹は「本を読まないねえ」と嘆かれるような存在だった。確かに、テレビの世代、山のような宿題に追われていた私たちは、父や母の時代ほどに本を読むという習慣を持っていなかった、と思う。

 父も母も、本を読むことで時空の限界を超えていたのだと思う。

 私が、飛行機に乗り、スーツケースを抱えて遠い地に行き、たまに持って帰る話は、確かに、父や母の興味をひくものだった。二人とも、身を乗り出して、話に耳を傾けて、写真をのぞきこんでくれた。でも、実家にしばらく滞在していると、決まって、母は、自分が読んだ最近の本のことを教えてくれたり、「これ読んだから持っていかない」と数冊の本をくれたりしたものだ。母が好む本は、私だったら本屋に行っても買わなかっただろう、というような、一見すると関心の少しずれているものが多かったが、それだけに、私を知らない世界に無理やりに連れて行ってくれ、自分の関心とは違うものに目を開かせてくれるよい機会だった。普段日本語に触れる機会がないだけに、こうして母の本をもらうと、むさぼるように日本語に浸っていた。

 私が日本を出て、自らの身体を使って世界を広げようとしていたのに対して、父や母は、本を読むことで、古い時代や外国へ「精神」の旅をしていたのだなと思う。結局、どちらも、自身の位置、自分を外から眺めたいという無意識の衝動だったのではないのだろうか。

 父が亡くなってからの数年、母と私は日本とオランダの間でよく長電話をした。その時にも話の中に、話題の本のことがよく出てきた。私も、海外で話題になり英語で読んだ本が翻訳されるとすぐさま「あれはよかったよ」と勧めた。そして私が勧めるものに、必ずと言っていいほど目を通してくれた。
 倒れる少し前の電話で、母はこう言っていた。
「最近は目が霞むのよね、、、でもね、目が悪くなっても面白い本は読めるもんだねえ、、」

母らしい冗談だな、と思う。糖尿病を患っていたから、本当に、視力は落ちていた。でも、最後の最後まで本を離さずにいたし、実際、最後の最後まで、活字を読み続けた人だった。

母が亡くなって、3冊単行本を書いた。雑誌や新聞に短い文章を書くことも増えてきた。どれも生きた母には見てもらえなかった。でも、どれも、母がどこかできっと読んでくれていると思われてならない。




 

2008/10/21

紅毛の空想

 娘の髪は赤い。赤毛というのは、西洋でも、段々に少なくなっているという。劣性遺伝で、父母の双方に赤毛の遺伝子がなければ、子どもに赤毛は出ない、、、
「アレッ」と思わず思う。
 だって、それなら、うちの娘の髪が赤いということは、私にその遺伝子があるということではないか、、、

 思い起こせば、私も、子どものころ、前髪の部分が赤っぽくて友達からよくそのことを指摘された。中学や高校の時にも、同級生から、「窓から射してくる光にあなたの髪の毛が赤く光っているわよ」と言われたことが何度かある。
 母も、どちらかというと赤っぽい髪の毛で、若いころは、自分の母親にさえ、「おまえは色が黒くて赤毛だねえ」と嫌みを言われていた、と言っていた。
 母方の祖父や伯父は、二重瞼の丸い目で、昔の人にしては上背の高い人たちだった。

 母の実家は、筑後川の河口近く、満潮になると海の水が逆流して川に流れ込む大川という田舎にある。筑後川が注ぎ込む有明海はその向こうに長崎、平戸、天草などを控えている。南蛮人が古くから住んだ地方だ。

 1600年に日本に上陸したオランダ人たちは、その後、徳川幕府の許可を得て、出島に住むようになった。しかし、出島での妻帯は許されず、オランダ人居留者のお相手に、遊女らが出島に出入りしていた。遊女らが身ごもらなかったはずがない。身ごもった女たちの子供らは、その後どうなったのだろう。
 明治になって、正式に国交が交わされ、水利管理の部門などで、オランダ人技術者が全国各地に入って、水利技術を伝えるようになった。母の実家のある大川にも、有名なデ・レイケが作った導流堤が残っている。当時の大川は、筑後川の水流を利用した船による物資運搬で栄えた。母の祖父、私の曽祖父は船大工だった。

 デ・レイケの来日当初は、だまし絵で有名なエッシャーの父親も、水利技術者として日本に滞在していた。彼にも、日本人の(内)妻と子供がおり、帰国時には、同伴できず後に遺していったことが伝えられている。

 そういう時代、オランダ人の父と日本人の母との間に生まれた、髪の毛の色が薄かったり赤かったりした子供たちは、その後の人生を、いったいどんな境遇で過ごしたのだろう。あいのこ、と差別されたのだろうか、それとも、そういう子供たちでも受け入れていく仕組みが世の中にあったのだろうか。
 昔は、家に後継ぎがなければ、養子がとられたものだ。身寄りがなくても、家が貧しくても、力があれば、もしかしたら、養子としてよその家を継承する身分になれた人もいたのかもしれない。

 私の中に、そういう子供の血がひょっとしたら流れているのだろうか、と空想を巡らしてみると、興味は尽きない。
 もしかしたら、私の中に流れているオランダ人の血が、どこかで、私をオランダから呼び寄せ、オランダ人に出会わせ、オランダに連れ戻してきたのではないのか、などと白昼夢のようなことを想像する。

 そういう私のオランダ人の夫の先祖はといえば、どうやら、1800年ごろまでは、オランダには暮らしていなかったらしい。「あなたは、あの、汗と血にまみれて波頭を超えてやってきたひげもじゃの南蛮紅毛人の末裔ね」と言ってみても、どうもその証拠になるものが見つかりそうもない。夫の姓は、ゲルマン系の名前で、ヨーロッパでもドイツ人かと思われがちだが、この姓は、今ではハンブルグの港の近くに多い。ひょっとすると、そのあたりから近い水域で勇躍していたバイキングの末裔なのかもしれない。

 夫も私も、どっちにしても、「漂流者(ドリフター)」の血を汲んでいることだけは確かなような気がする

 こういう話は、証明できないだけに、空想の面白さがあり、楽しく、興奮する。少なくとも、愛国者の純血神話を聞かされるのに比べたら、わたしは、ずっと面白いと思っている。

草の絮

草の絮輝きながら浮かみけり

涼しさや幾山越えし風にあふ

逝く水はゆき落椿とどまれる

 
 書家であり俳人でもあった母が遺した愛唱句だ。

 前妻の二人の娘を育てながら、ずっと後に母が生んだ私は母にとって自分の腹を痛めたひとりっきりの娘だった。それだけに、私に手をかけることは憚られた。おかげで、私は、長々と小言を言われたり、お説教をされるような目には一度も会わずに済んだ。おまえは、自分で自分のことはやんなさいよ、と言われているようなもので、その分、自由があった。私の幸いは、そういう境遇に生まれたことだ。

 母にしてみれば、自分の産んだ子なんだ、言葉でいちいち説明しなくても分かっているだろう、という気持ちがあったのではないか、と思う。

 私が小さい頃から、「お母さんはね、あなたがどんなに遠くに行っても全然心配などしていないのよ。遠くに行ったって、あなたが自分の子であることには変わりはないのだし、何をどんな風に考えるかなんてよく分かっているし信頼しているから大丈夫」としばしば言っていた。
 いつか、私が母のもとを離れて遠くに行くことを母は予測でもしていたのだろうか。女の子なのだから、そうなって当たり前、と思っていたかもしれない。それとも、遠くに行って羽を伸ばして生きてほしい、と心から思っていたのだろうか。あるいは、いつか娘が飛び立って行く日に、自分がうろたえた母を演じてしまわないようにと、そのころから、自分に言い聞かせて心の準備をしていたのだろうか。真意はどれなのか分からない、その時その時に、そのいずれでもあったような気がする。

 外国人と結婚し、アフリカの極地に行ってしまうかもしれない、と知った時、向けようのない怒りと失意で常軌を逸してしまった父のそばで、私の結婚に同意し、かわりなく励ましてくれたのも、この母だった。本当は、一人娘が奪われてしまう母にこそ、支えが必要であったはずなのに、、、

 長々と通い続けた大学は、この留学から帰れば就職の機会、研究者としての道も歩み始められるという寸前のところで辞めてしまい、両親の面倒をみるでもなく、家計を助けるでもなく、ましてや恩返しになることなど何一つせずに、これから老いていくという父母を顧みるでもなく、別に、言い訳になるような大義もないまま、ふわふわと夫について日本に別れを告げた私は、まさに、タンポポの綿のように、この上なく頼りない存在だったのに違いない。
 「あなたの手紙を受け取ったのは金木犀の薫る庭、やっと生涯の伴侶を見つけたのだと、うれしかったです」というのが、夫と結婚したいと告げた時に最初に母がくれた手紙だった。同じ状況に私がいたら、果たして、こんな言葉を娘に言えただろうか、と思う。

 後になって、冒頭にあげた母の「草の絮」の句の存在を知った時、ああ、これはあの時の句だな、と思わずにいられなかった。

 その草の絮は、ほんとうにずいぶん長い間ふらふらと宙を浮いていた。その間、果たして、ずっと輝き続けることができていたのかもほとんど確信はない。父も母も亡くなり、ようやくこの数年になって、絮は疲れて着地し、少しだけ、土壌に根を張る気分になってきたらしい。父や母には、生きている間、どれだけ歯がゆい思いをさせたことだろう。

 けれども、救いは、母が二番目の句を作ってくれていたことだ。
 物事には時間がかかるものだ、ということを母は知っていた。母の人生を思い返してみる。母自身、目指していた理想はあった。でも、最後は、それが自分に課してきた無理難題だったということに気付いていた。悔しさもあったろうが、やるだけのことはした、これ以上は自分には無理だったという達観も確かにあったと思う。いくつもの山や谷を越えて生きてきた人というものは、世の中で「えらい」人といわれなくても、そこにいるだけで存在感のある人間であるということ、まっとうに生きている人というのは、そばにいるだけで、涼しさとさわやかさを感じさせる存在なのだ、ということを母は知っていた。母の周りに、きっと、数少ないが、そういう人がいたのに違いない。母自身もまた、そういう存在でありたいと願っていたのだろう。

 大学院のころ、自分のやっている研究に自信が持てずにいた。これが研究などといえるものなのだろうか、とほとんど対人恐怖症でもあるかのように、蚕の中に自分を閉ざしていた。当時、本当に希少な数の人しか関心を持たなかった東南アジア研究などに迷い込み、どこに、何に向かって進んで行ったらいいのかもわからなかった。その時、私の指導教官ではない、隣の講座のある教授が、何を感じてか「なんでも一〇年はかかりますよ。一〇年は脇目を振らずにやってみることです。そうしたら、やってきたことの意味がわかりますよ」と、ほとんど笑いに近い表情で私に告げてくださった。
 この言葉は、その時の私にとってなくてはならない言葉だった。脇目を振らず、わがふりなど気にせずに、一度がむしゃらになってみろ、ということだったのだと思う。自分がやっていることが無意味でなかったと思えるまでに、それから三年もかからなかった。

 こんなにかけがえのない大切な言葉を私の心に奥深く残してくれたこの教授も、風の便りでは今は亡き人になられたという。

 逝く水はゆき落椿とどまれる

の句は、母が急逝したとき、すぐに脳裏に浮かんだ句だった。
 教授の言葉も、母の句も、冷たく流れ続ける川の水面に落ちた椿の、あとほんのしばしの時間、とどめ遺された鮮やかな色のようだ。

 草の絮のように軽やかに、山から吹く風のように涼やかに、そして、落ちてなお鮮やかな椿のように熱く生きられたらどんなに幸せなことだろう。

 粋な生き方をする人が少なくなった。いや、案外、粋などというものは、昔から少ないからこそ価値があるのかもしれない。

 物事に対して、ちょっとひねった見方ができる、自分自身の行為を含めて人の行い、身の振り方に可笑し味が見いだせる、うまくいかないことがあっても人のせいにしない、人生の様々の苦しみに「誰にでもあることさ」と小言を言わずに耐えられる、他人のことをとやかく言わず自分の掌で転がすように他人の行動を予測でき、それに自分の方を合わせるだけの余裕がある、人前で怒らない、泣かない、、、、嫉妬していても、悔しくてもすずしい顔をしていられる、、、



 できないことだな、と思う。でも、粋に生きたいという気持ちだけは、できなくてもあきらめずにいつまでも持っていたい気がする。



 人によっては鼻もちならない貴族趣味、お前らノブリス・オブリージュとでも思っているのだろう、余裕のある人間の言うことだよ、と言われそうだ。力のない人間が粋を装えば世の中からは押し出されてしまうことのほうが多いかもしれない。だが、粋は、カネのあるなしとは関係ない。カネなどなくても涼しい顔をしていて、他人に酒の一杯も酌んでやろうかというのが、「粋」というものだ。



 カネカネカネ、そして、欲望ばかりの消費者だらけの今の時代。それだけに、粋が懐かしい。



 カリスマに浮かれるどこかの知事、カネと欲望と好戦趣味のどこかの大統領、無粋も甚だしい。

 教会主義やセクト趣味も私は苦手だ。



 人間、人からの評価を聞かないと安心できないものだ。そういう弱さが、人気者になっていくことに快感を感じ、他人とつるむことに安心する人間の性につながっているのだろう。



 粋には、色っぽさがある。性欲とは別に、あるいは、それと背中合わせに、異性をこよなくいとおしむ心には、粋の本質があるような気がする。だから、男を敵視して、女性解放云々とやる女たちに、どうもついて行く気になれない。女は強くていい。月並みでない、めそめそしない女は粋だ。解放されたいなら、そういう女になればよいのに、と思う。


愛人がいることを隠さなかったかつてのフランスの大統領ミッテルラン、愛人問題で苦労させられたアメリカのクリントン大統領など、「だめな連中だな」というより、「粋」な指導者だな、と思っていた。男も女も、元来、人間は孤独なのだ。

 

 「粋」は、才能があり有能で、感覚の優れた人の防衛手段なのかもしれない。ばかばかしくて生きることがいやにならないために、自然に働く心の動きのようなものなのだろう。才能のないものが、愛人など作っても、粋でも何でもなく、無様なだけだ。



 「粋」は日本だけのものではない。

 ダンディズムという言葉がある。スティングのEnglishman in New Yorkなどは、そういう英国流のダンディズムへの憧憬だろう。ヨーロッパ人は、アメリカ人を子供っぽくて粋に欠けた人々だとみなしているようにみえることが多い。

 でも、アメリカにも粋への憧憬はある。The Legend of Bagger Vanceに登場する、ウィル・スミス演じる不思議な黒人の男や、シャーリーズ・セロンが演じる主人公の恋人などは、惚れ惚れとするほど粋な男と女を体現している。

国際結婚の醍醐味

 自分とは異なる国から来た人間と結婚して、何に一番戸惑うか、というと、夫婦間の役割分担、男と女の間の役割分担に、「当然」だとか「わかりきった」ことがないということだ。お互いに相手の行動を、自分がイメージしてきた相手の国の文化から割り出そうとする。そして、案外、そのイメージが当たっていないことに気づかされ、修正を余儀なくされる。まして、国際結婚などをする気になる人間というのは、もともと、自分の国の中でもどちらかというと「変わり者」のほうで、自分の国の文化を代表しているというより、いくらか拗ねた皮相な見方をしており、自国の文化を背負う大道を歩くなどといった気分は持っていない確率のほうが圧倒的に高い。そのくせ、相手に対しては、自分が勝手に抱いている相手の国の文化でフィルターをかけてみているわけだから、それが、しばしば、ことを一層複雑厄介なものにする。

 このことは、子どもが生まれ、二人で育児を始めるともっと面倒なことになる。子どもに対して、父親は、母親は何をするのか、男の子に対する態度は、女の子に対する態度は、、といったことで、いちいち、相手の行動に、予想もしていない驚きがあるからだ。
 長男が三歳の時、近所の子供たちを招いてバースデー・パーティを開いた。私の役割は、子供たちが喜びそうなランチを作り、小さなお菓子の包みやおもちゃを用意して、つまりは、シチュエーションを整えておくこと、後は、夫が、子供たちを相手にワイワイ遊んでくれるもの、となんの疑いもなく期待していた。ところがどっこい、パーティが始まっても、夫は、ニコニコ見守っているだけで、先に立って子供たちを遊ばせてくれるような気配がまるで見られない、、、、子どもたちは、もうカオスというよりなく、ありの子を散らしたように収拾がつかない状態で騒ぎ遊んでいる。期待を裏切られた私のほうは、そうして立っている夫が木偶の坊のように見えて、イライラし、段々、機嫌が悪くなってしまった、、、

 そもそも、オランダ人の大人たちというのは、一般に、子供たちの先に立って何かを「指導する」「やらせる」ということをしない人たちだ。何か、集団として「まとまって」物事をやらせるということもとても嫌う。それは、アメリカ人などに比べても歴然たる違いがある。子どもたちは、それぞれ、好きに、それこそ「自己発見的に」遊び、学び、育てばいい、と思ってるらしい、と言っても多分言い過ぎではない。
 しかし、それを初めて「目撃」した時、私は、子どもたちをカオスの中に何時間も放りだしておける夫が、ほとんど未知の星からきたかのように不可解存在に見え、その不可解を自分の中で消化することができずに不機嫌極まりない状態になってしまった。

 こういう突然降って湧くような「意外」さは、以後、夫との生活の中でどれだけ経験したか数えきれない。同時に、自分自身が、まったく無意識のうちに、どれだけ日本人としてステレオタイプの行動をしていたかに気付くことも数限りなくあった。
 特に、男の子と女の子に対する夫の態度、私の態度には、ほとんど歴然とも言えるほど、典型的なオランダ人、日本人の態度があったと思う。男の子だからと言って「たくましさ」「強さ」をことさら求めない夫は、成長していく息子の様々の悩みに、友達のような気楽さでいつも付き合ってやっていた。私はといえば、無意識のうちに、「長男なのに」「男の子なんだからもっと」と、気持ちの優しい長男に対して、どこかで、突き放し、力以上のことを期待してきたような気がする。
 また、半面、いつまでもボーイフレンドができないティーンエージャーの娘に、男の子の心理などを教え、そろそろ、「ボーイフレンドの一人でも作って人生経験をしないとあいつはいつまでも子供のままだよ」などと言っている夫に、わたしはといえば「へえーっ、そんなこというのか」なんて心の中で感心している。
 子育てをすることで、こういう相手に対する思い込みの強さ、子どものジェンダー役割への期待がどれだけ自分の育った環境に無意識に影響されているかを知ることは数限りなかった。相手の文化の価値観でもなく、自分のそれでもなく、なおかつ、夫婦間のどちらにもアンバランスな関係にならないように、お互いにとって平等で、そして何より子どもにとって最善の子育ての基準は何なのか、、、、冗談などではなく、私はそれを本当に何度深刻に突き詰めて考えたかわからない。
 そして、思い至ったのは、その子一人一人の成長のチャンスを最大限に生かしてやること、早く生まれたとか遅く生まれたとか、男だから女だからというのではなく、どちらにも、一〇〇%自分らしく生きる権利があるのだ、ということだった。
 国際結婚の結果生まれてくる子供たちは、親が持ってきた二つの文化のミックスなどではない。二つの文化を背景にし、それぞれ、自分の文化を外から眺めて批判的に見直しながら生きる二人の人間が意図的にしだいしだいに作りあげていく「新しい」文化の成果なのだと思う。そして、子ども自身が生まれ持ってきたユニークさが、そんな環境の中で、最大限に引き出される時、彼らは、幸せな、底知れない可能性に満ちた人間として育って行ってくれるのだろう、と思う。

 国際結婚の醍醐味は、こんなところにある。そして、もしかしたら、それは、国際結婚でなくても、どの夫婦にも当てはまることなのかもしれない。

 昨日私たちは結婚25周年を迎えた。
 ほとんど空気のようになってしまって普段大げさな会話もけんかもしなくて済むようになった。
 昼過ぎ、玄関のベルが鳴り、お花屋さんが、25本の深紅の薔薇の花束を届けてくれた。花束には「冒険に満ちた25年に25本の薔薇を。ありがとう」と書かれたカードが添えられていた。またしても「びっくり」「予想外」の出来事だった、、、、

 


 

2008/10/19

ハグ

 「抱きしめる」というあいさつの仕方がある。それは、相手に対する強い同情、あるいは、励ましの表現なのだ、と思う。
 日本では、公然と他人を抱きしめることがはばかられる。だから、初めてヨーロッパに行って、初めてホームステイした家庭の主婦から、別れ際に、両腕をぎゅっと握りしめられた時には、思わず涙が出そうに感動してしまった。
 個人主義が進んだ国に暮らしていると、この「ハグ」が、ものすごく心休まるジェスチャーだと感じさせられる瞬間がしばしばある。

 10年余り前、私たち一家はボリビアから引き揚げてオランダに暮らし始めた。当時、夫は、それまで10数年にわたって続けてきた開発途上国援助の仕事に大きな壁を感じ、躓き、苦しんでいた。私自身も、前年父を亡くしたばかりで、年老いていく母を一人故郷に残していることに申し訳なさと不安を感じていた。
 とりあえずは、小学生の二人の子供にとって最も安定のある生活をしようと、オランダの、夫の実家の近くに居を定めることにした。そうして、生活を始めてわずか1週間の後、南アフリカに仕事で出かけていた夫の父が、現地で心臓麻痺を起こして急逝したという知らせが入った。
 たった二日前に、空港に向かう元気な義父母を、最寄りの駅まで送りにいったばかりだった。

 うろたえて電話をかけてきた義母を励まし、電話口に立っている私のそばにいる二人の子供たちに、悲しいニュースを伝える私のそばに、夫はいなかった。仕事でも失意のどん底にあった夫は、私たち家族を先にオランダに帰して、ボリビアで最後の片づけをして、帰国の準備をしているところだった。この夫に、義父急逝のニュースを伝え、それから、最後の力を振り絞って、近くに住んでいた夫の従兄に電話した。

 驚いた従兄夫妻は、それから、とるものもとりあえずすぐに駆けつけてくれた。ショックで震えている二人の子供たちをかばいながらドアを開けると、従兄は、ものも言わずに、まっすぐに私のほうに向かって来て、すぐさま私をしっかり抱きしめてくれた。あの時くらい、ハグのありがたさを感じたことはない。

 前年父が亡くなる直前、私は、ボリビアから、家族を置いて日本に父に会いに行った。病院のベッドの上でやせ細って弱っていた父は、私がそばに寄ると、何度も、私の手を取り、自分の手の中に包むようにして、手の甲をさすってくれた。父にとっては、このスキンシップが生きていることを確認する行為だったのではないか、と思う。10日間の滞在の後、家族のもとに帰る私との別れ際、父も私も、もう2度と生きて顔を合わせることはない、ということを知っていた。その時も、掌を、いい大人の私の頬に当ててさすってくれた。ハグと同じくらいに、インテンシブなスキンシップだった。涙は、父にも私にも流せなかった。

 ボリビアに帰って、初めて子供たちを迎えにアメリカンスクールに行ったら、迎えのお母さん達が取り巻いている中で、娘の同級生の母親のキャロルが、いきなり、ものも言わずに私をぎゅっとハグしてくれた。彼女もまた、少し前に、故郷の母を癌で亡くしていたのだ。

 娘が小学校1年生だった時のこの学校の担任の女教師ヴィッキーは、毎日、授業が終わると、教室の入り口に立って、クラス全員の子供たちに、ひとりひとりハグをして家に帰していた。ハグは、子供たちに、その日の学校でのいろいろな出来事に決算をして、気持ちよく家に帰すための行為だったのかもしれない。だが、それ以上に、担任教師としての彼女自身が、その日の子供たちとのいろいろな思いを清算して、新たに翌日の授業を準備するための儀礼だったのではないか、という気もする。

 娘たちは、2年生に進級してからも、このハグが懐かしくて、授業が終わると、わざわざハグをしてもらいに、ヴィッキーの教室に行き、1年生がハグをし終わるのを待って、ヴィッキーにハグをしていた。

 今は20歳になった娘は、今も、ハグが好きだ。何か嫌なことがあった時、何か不安なことがある時、夫や私に、「ハグ」と言って抱きしめてもらいに来る。自分でいけないことをしたな、失敗だったな、と思うと、改悛の言葉とともにハグを求めてくる。そして逆に、私や夫が辛い思いをしているらしいと気配を悟ると、自分のほうから「ハグ」と言って抱きしめてくれる。

 人には、言葉にならない、言葉にできない、言葉にしてしまうと陳腐でやりきれない感情というものがあるものだ。だから、ハグされるたびに、「いいのよ、何も言わなくても」としっかり受け止めてもらえているのだという確証をもらっているような気がする。そうして、幾人かの人が、こうして、それという時にハグをしてくれることを知っているだけで、また、もう一歩独り歩きをしてみようかと勇気が生まれてくる。

 日本人は恥ずかしがり屋だ。亡くなる前の父がしてくれたように、手をさすったり、手をつないで散歩をするだけで、ハグの代わりに十分なっているのかもしれない。でも、抱きしめられるというのは、肩から背中からすっぽり包まれるような安心感を与えてくれるものだ。夫婦なら、親子なら、家の中でもっともっとハグしていいと思う。抱きしめてやることで、相手は生きることにもう少し勇気を持とう、という気になれる。相手は、夫でも、妻でも、親でもかまわない。抱きしめられたい、というのは、人間にとって、しばしば起こる当たり前の感情だと思う。


 

5円玉

 真ん中に穴のあいた5円玉を掌に握りしめ、たった一つ先の停留所まで一人でバスに乗っていった小学1年生だったあの日。手のひらに載った5円玉のイメージは、50年近くたった今も脳裏に残っている。
 一人旅が好きだった。他人に合わせて、グループで動くのは苦手なほうだった。弱虫で、恥ずかしがりやで、怖がりのくせに、一匹狼を装ってみせるような人間だった。
 大学に入って、休みになるごとに、日本各地を一人で旅した。初めてヨーロッパに行ったのは19歳の時。学生のころには、韓国や東南アジアにも出かけて行った。
 そんな一人旅の性癖が、とうとう、こんなに遠くまで私を連れてきてしまったのだな、と思ったのは、ケニアの北西部、ウガンダとの国境に近い半砂漠の原野トルカナに住まいを定めた時だったような気がする。その後、父や母のいる日本からは、ますます遠くに離れていった。地球の裏のボリヴィアで、標高4000メートル以上の土地にあるラパスの空港に降り立った時、おんぼろのバスに揺られて、首都スクレから、かつてアフリカから買われてきた黒人奴隷たちが鉱山労働者として酷使されていたというポトシに行ったときも、同じように思った。
 私を、遠くへ遠くへと引きよせる5円玉の魔法のような魅力は、今も続いている。

 そして、一人で遠くへ遠くへと旅を続ければ続けるほど、生まれも育ちも文化も宗教も異なる人々の中に、人としての「共感」が言葉もなく感じられることに、かけがえのない幸いを見出す。

2008/10/18

あの時すでに

 5歳の時に、生まれた下関を離れ、福岡に暮らし始めた。
 同じころ、お向かいの空き地に大きなバレエ教室が建った。バレエを教えていたのは、当時、50歳を過ぎていたH先生だった。土曜日の午後になると、「アン、ドゥ、トロワ」とフランス語で拍子をとりながら声をかけて指導しているH先生の声が近所に響き渡った。水曜日の午後、H先生は、タイトなワンピースドレスに身を包み、きりりとしまった脚にハイヒールを履いて、つばの広い大きな帽子をかぶって、電車に乗って近郊の都市のバレエ教室に出かけておられた。
 ご主人のほうは、ちょうど60歳。毎日、夕方になると、自転車にまたがって、当時、そこから数キロのところにあった米軍基地のバーにジャズピアノを弾きに行っているとのことだった。日本人離れした、鼻筋が通って彫りの深い顔立ちと、オールバックの髪、上品な物腰が、子供心にも、近所のどのおじさんとも違う雰囲気だな、と感じていた。  

 母は、そのころ、自分の父親(私の祖父)にねだって私たち姉妹のためにピアノを買ってもらっていた。そして、私と姉二人は、H先生(ご主人のほう)に母が頼みこんで、ピアノの家庭教師をしてもらうことになった。こうして、H夫妻と私たち一家の長い長い交流が始まった。

 H夫妻は、「引揚者」だった。戦前から、中国大陸にすみ、北京の近くに邸を構えて、御主人は、日本の放送局の専属ピアニスト、奥さんのほうは、当時は、ピアニスト夫人として何不自由ない豊かな暮らしをしていたという。北京の自宅には、広い庭園があり、初夏になるとライラックの花に溢れていたという。外交官の子として育った夫人は、小さいころから、絵、バレエ、ピアノ、フィギュアスケートなどの稽古事をしながら成長し、何度もフィギュアスケートの大会に出て賞をもらった、と話されていた。

 そんな生活が、ある日、ロシア軍の南進で一気に壊される。放送局のグランドピアノは、目の前で木っ端微塵に砕かれ、大きな家も調度品も衣類も、何もかもをあとに置いて、ただひたすら祖国を目指して引き揚げるよりなかった。
 やっとたどり着いた祖国は終戦後の混乱期。身を寄せたご主人の実家の座敷で、生活のためにバレエ教室を始めたのは、奥さんが、40歳を過ぎてからだったという。ご主人のほうは、何もかもを失って日本での再起を余儀なくされた時、まず、奥さんを誘って「英語を勉強しよう」といったという。それから、高校の音楽の教師になった。
 我が家の前の空き地にバレエ教室が建ったのは、それから、およそ10年あまりの後、ご主人が教師を退職し、退職金と、それまでコツコツと貯めてきた貯金を資本にしてのことだった。

 その後受験勉強のために姉たちはほどなくピアノの稽古を辞めてしまったが、小学校1年生になったばかりだった私は、毎週土曜日のおけいこを楽しみに待つようになった。決して叱ったり脅したりすることなく、穏やかに、ぽつりぽつりとアドバイスをするだけのH先生のお稽古は全く苦にならなかったし、何か、ホッとするような安心できる時間だった。お稽古が終って、先生がさらさらと引き流される曲は、いつも、軽い即興の入ったジャズピアノだった。20歳の成人式を迎えた時、脳溢血で先生が倒れられるまで、レッスンは続いた。
 私たちが稽古を始めて2,3年の後、先生も新しいピアノを自宅に購入され、レッスンは先生の自宅になった。うわさを聞いて生徒が集まるようになった。ピアノの生徒たちは、稽古の順番を待つ間、バレエ教室の片隅のストーブのそばに座って、奥さんが指導されるバレエを目を凝らして見つめていた。当時、まだバレエを習う子などあまりたくさんはいなかったから、珍しく、興味深かったのだろうと思う。

 こうして、何年間も、私は、ただ、ピアノの教室に通って、そばから二人の様子を見ていただけだった。たまに、ご主人のH 先生と趣味の写真の話などをしに行く父についていき、先生夫妻の庭の、うっそうと灌木の茂る緑陰で、進められたジュースを飲みながら黙って大人たちの話を聞くことはあっても、自分から夫妻とともに話に加われるようになったのは、ずっと後になってから、たぶん、高校生くらいになってからだと思う。

 でも、こうして、夫妻のそばで育ったことが、私の人格形成にどれだけ大きな影響を与えてきたか分からないと思う。
 二人とも、他人のことをとやかく噂したり、批判したりするようなことは一度もなかった。自分の生き方をしっかりと持ちながらも、だからと言ってそれを人に押し付けるような素振りをされることは決してなかった。そういう二人の姿は、周囲の人の目には、大変日本人離れしたものではなかったか、と思う。近所づきあいがうまいわけではなく、周りの人たちは、どちらかというと「付き合いにくい」という人のほうが多かったようだ。でも、今になって思えば、たぶん、話してわかってもらえるようなことではない、という気持ではなかったか、と思う。戦前・戦時中のことでも、人が聞かない限りは、自分のほうから自慢げに話されるようなことは絶対になかった。

 自分の力、自分の能力を、そしてたぶん、人間だれしも限界を持って生きているのだ、ということを実感として知っていた人たちであったのに違いないと思う。そして、いつも、日本の社会を、外から眺めているようなところがあった。そうでありながら、他人を見下したり、馬鹿にするような態度は、決して見せられなかった。
 私が27歳の時、オランダ人の夫と結婚したいと告げて、父からほとんど勘当同然の扱いを受けた時、悩んだ母は、夫妻のところに相談に行った。その時に、H 先生の奥さんが、こう言われたことで、母はきっぱり決心がついたという。
「直子を翔ばせなさい。あんな丘のてっぺんのうちに閉じ込めていたって直子は大きくなれないわよ。 直子を世界に翔ばせなさい」と。

 H夫妻の頭の中には、たぶん、いつも世界地図があったのだろう。
私も、いつの間にか人生の半分を外国で暮らした。そんな今でも、どんなに世界の遠くに行っても、H夫妻のような心境にはまだなれていないのではないのかな、とよく思う。10数年余り前ご主人は92歳で亡くなられた。それまで、わたしは日本に帰国するたびに必ずH 夫妻を訪れた。でも、だからと言って、行った先々の話を自慢げにするようなことなど、先生夫妻の前ではできなかった。懐かしい昔話をし、外国人の夫と、外国人の間に生まれた二人の子供を連れてきて会わせると、それだけで、二人は、私たちを、家族のように暖かく迎え入れ、言葉が通じなくても、だれもが温かな気持ちになって、雑談をしながら何時間もそこで過ごすことができた。

 異文化に暮らすということが、ちっとも特別なことではなく、私の生きる場は日本などを超えて世界に広がっているのだ、ということを、わたしに始めて教えてくれたのは、このH夫妻に他ならなかった、と思う。  

3点あってやっと異文化理解

 初めての外国暮らしというのは、どうしても冷静になれないものだ。
 私の初めての異国はマレーシアだった。しかも、当時の日本では、マレーシアなど、だれの関心もない国だった。ほとんどの日本人が知らない国に、冒険をするような気持ちで踏み込んだ26歳の若き日のことは、今でも、甘酸っぱい感傷と共に思い出す。
そして、その感傷は、今でも続いている。それはそれでいいのだろう、と思う。
だが、異文化理解、という意味では、あまり冷静な観察者にはなりきれていなかったのではないか、とも思う。日本と比べるにしても、どちらがどの程度にどうなのか、ということが自分でもつかみ切れなかった。2点比較だったからだろうと思う。
 当時のマレーシアは、今と違い、まだまだ典型的な発展途上国だった。私が暮らした村など、電気も半数しか届いていなかったし、水道もなかった。電気のない夜、まだ昼間の暑さが残る村の道を歩いていると、こちらの目には見えない通りがかりの村人が「よっ、ナオコッ」と声をかけてきた。その夜目の効くことに感動していたのは、ほんとうに暗い夜というものを知らない日本人の私だった。そうして、そういう時にふと、「いやあ、文明人なんて、本能を失ってしまっているなあ」なんて感動してひとりごちてみたりする。ナイーブだったな、と思う。
 マレーシアの当時の貧村の人々が、まるで、日本という先進国から来た私の存在など気にもしないで、昔ながらの自給自足に近い生活をしているように見えた。そして、「たくましい」などと感動してしまう自分がいた。開発途上国などという枠をかけて、勝手にロマンティシズムに浸っていたのではなかったか、とも思う。

 幸い、私は、その後縁あってアフリカの半砂漠、トルカナの村に1年足らず住んだ。それこそ、マレーシアの農村などとは比べ物にならないくらい厳しい、電気も水道もそして生活必需品をそろえる店さえもない生活だった。そして、そこで、「開発途上国」という名前でくくられている国々が、どんなに違う事情とどんなに違うメンタリティをもった人たちが住む多様な国であるか、ということを痛いほど知らされた。
 その時、やっと、私にとっての初めての異国マレーシアに対して、冷静になれたような気がした。
 同時に、私の中で、日本、マレーシア、ケニア、という国が、異文化理解の3点としてそれなりの位置を定めたような気がする。

 その後、オランダに暮らした1年も、おかげで、極端に、オランダを好きになったり、嫌いになったりという片手落ちのアンバランスな態度をとらずにすんできたような気がする。

 もしも、これから海外に出ていく若い人たちにアドバイスすることを許されるのだとしたら、どうか、たった一つの国を見ただけで、外国を知ったような気持ちにだけはならないで、と言ってあげたい。無理をしてでも、少なくとも3つの国に住んでみなければ、本当の異文化理解にはならないような気がする。